読書めも〜『岡潔 数学を志す人に』

岡潔 数学を志す人に/岡潔/2015/平凡社

・道義の根本は、ややもすれば自分を先にし他人をあとにしようとする本能をおさえて、他人を先に、自分をあとにすることにあるといってよい。子供についていえば、数え年5つぐらいになれば他人の喜びはわかるから、このころから、他人を喜ばせるようにしつければよいと思う。こうして育った子は、外からはいる悪いものにも、内から出る悪いものにもおかされないと思う。

・現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない。そんな風潮が支配している時代なのだから、学問のよさ、芸術のよさもなかなかわからない。しかし、そこに骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、もののよさが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。

・数学が上達するためには大脳前頭葉を鍛錬しなければならないのはいうまでもありません。しかし、その鍛錬の仕方が大切だということは案外に気づかれていないようです。ちょうど日本刀を鍛えるときのように、熱しては冷やし、熱しては冷やしというやり方を適当に繰り返すのが一番いいのです。そしてポアンカレーのいう智力も、冷やしているときに働くものなのです。

・教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直感とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、心情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。

・そうでなくても学校は宿題が多すぎるのです。どうもこの人は子供の時間を残りなく何かで塗りつぶさなくてはいけないと思っているらしい。しかし人は壁の中に住んでいるのではなくって、すき間に住んでいるのです。むしろ、すき間でこそ成長するのです。だから大脳を熱するのを短くし、すき間を長くしなければとうてい智力が働くことはできまいと思われます。

・本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切なのです。

・戦争ばかりといえるゆえんです。こうなった原因は何でしょうか。
 私はそれは調和の精神なしに科学を発達させたのが原因だといえると思います。
 (中略)
 こういう世相にあって、のんきな数学などは必要ないと思う方もあるかもしれません。しかし、数学というものは闇を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要になるのです。闇夜であればあるほど必要なのです。

・人に対する知識の不足が最もはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。(中略)それを、ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎるほうがよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

・ある時期は茎が、ある時期は葉が伸びるということぐらいは、戦時中みんなカボチャを作ったから知っているはずだが、人間というカボチャも同じだとは気づかず、時間を細かく切ってのぞいて、いいとか悪いとか、この子は能力があるとかないとかいっている。

・どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。

・頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。

・年長者を大事にしろというしつけをしていると、将来困ることが起きるかもしれない。

・さきに副交感神経系統についてふれたが、この神経系統の活動しているのは、遊びに没頭しているとか、何かに熱中しているときである。やらせるのではなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。(中略】こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。

・よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。(中略)私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

・全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。(中略)だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきたときはもう自然に問題は解決している。

・数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見つけたときの気持だと答えたい。

・したがって、心の中に数学的自然を生い立たせることと、それを観察する知性の目を開くということの二つができれば数学がやれることになる。心の中に数学的自然を作れるかどうか、これが情操によって左右されるとすれば、よい情操をつちかうことの大切さは、いくら強調しても強調し過ぎるということはないだろう。

・たとえば小学校三年、四年生のころは、心のふるさとをなつかしむといった情操を養うのに最も適した時期ではあるまいか。「心のふるさとがなつかしい」という情操の中でなければ、決して生き生きとした理想を描くことはできないのだ。

・祖父は私の中学四年のときに亡くなったが、それまで私はずっと祖父から道義の教育を受けた。一口にいうと、まことに簡単「人を先にし、自分をあとにせよ」ということで、その点に関しては徹底したものだった。

・自分だけでなく、人も喜ばせなければいけい。

・おとなになってもそうだが、人の心の窓というものはめったに開いているものではないときどき開いておればわかるのである。そのときほうり込んでやることだ。

・このように、人が喜んでいるということは割合に早くわかるが、一番わかりにくいのは人が悲しんでいる、あるいは悲しむだろうということで、これは容易にはわからない。しかしこれがわからないと、道義の根本を、表層的ではなく、根源的に教えることができない。

・知的興味の特徴はこんなふうの質問にあらわれる。「ここにどうして坂があるの?」だから、そこに出てくる興味の芽ばえを「アホなこと聞く、この子は」と一蹴してしまわないことが、非常にたいせつである。とても答えられるようなことを聞いてこないのだから、むしろ不思議なことが聞けるものだと思ってみてやってほしい。

・この高等学校も非常にたいせつな時期である。人はそこで道義の仕上げをするとともに、理想の一番初めの下書をする。理性が本当に働きだすのもこのころからである。以前は理想をつくるために三年間という空白の時間を与えていた。そのことを意識していた識者も少なくなかったろうと思う。しかし、こんな時間の使い方はむだだとでもいうのか、真っ先に以前の高等学校をやめてしまった。それでは理想はつくれない。理想がつくれないのに大学が選べるはずがない。どの大学のどの科にはいるという選択もできない。そこでいきおい就職を目標にするのは当然だと思う。理想などいらないといって高等学校をやめ、次に道義もいらないといって義務教育が今のようになってきた。それが現状である。しかし私には、人生を渡る二本の橋は、道義と理想だとしか思えない。

・戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなものは形だけで、内容がない。調和のあるものこそ平和というべきで、平和それ自体はそれなりの内容を持っているのである力の文明は野蛮だと思う。しかし野蛮は野蛮でも、人類はあやまちの過程をふんで文化にたどりつく。この野蛮を、文化前夜の野蛮とみて、私は将来に希望をつないでいるのである。

・ベドイヅング(意味)も何も考えるいとまがなかったから、原子爆弾を落としたりしてしまったに違いないのである。人類に対する利益だといっても、中身のことは考えずに、缶詰ばかりつくっているようなものだと思う。とにかく、情緒の中心が調和を失うことがどんなに恐ろしいかということは実在する。

・美とは美しいということでは決してない。人が追い求めてやまないもの、知らないはずだのに知っているような気のするもの、なつかしい気のするもの、である。

・智力の光はたいていの人についていえば、感覚、知性、情緒の順序で上ほどよく射しこみ、下には射しにくい。一番下のこころの部分は智力が最も射しにくく、日光に対する深海の底のようなありさまにある。この智力が射さないと存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって手近に見える外界や肉体は確かにあるが、こころなどというものはないとしか思えなくなる。かのようにして物質主義になるのである。私欲の対象である金銭や権力が実在すると固執するだけでなく、情緒とか宗教といったものを毛嫌いするのである。