ピアノの練習と習い事の思い出

長女のピアノの発表会が近づいてきていて、練習に熱が入っている。ピアノになると妻のほうが厳しくなる。ときどき、出来なくてつらくなって泣いている。ぼくは失敗しようが、練習を怠って前できていたものができなくなろうが、全く気にならない。徹底的にアメになれる。この音楽音痴からしたら、楽譜が読めるだけ、続けるだけでもすごいと素直に思える。

小さい頃、ピアノを習わさせられた。母はピアノができる息子になってほしかったのだろう。しかし、これもまったく好きになれなかった。最初は家の近くのヤマハ音楽教室。練習をしていかないから、うまくもならないし、行きたくもない。

これはマズいと先生を変えた。母の塾の教え子のきれいなお姉さんの個人レッスンであった。今思うとすごく恵まれておる。今こそ習いたい。しかし、少年にはそのありがたみがわからない。先生は優しく教えてくれた。それでも、好きになれなかったからもう打つ手はないのである。

小さい頃、そろばんを習わさせられた。母もやっていて、すごく暗算が得意であった。息子にもそうなってほしかったのだろう。しかし、これもまったく好きになれなかった。教室は古いスーパーの2階であった。おばちゃんの先生が一番まえにこっち向きに鎮座しており、低い横長の台のような机がスクール形式で並んでいる。一つの机に3人くらいが並び、地べたで座る。その教室は違う小学校校下だから、誰も知り合いはいない。おばちゃん先生は集中しないぼくを怖い顔で見てる。窓が少なくてくらい。そんな環境で「願いましては」といわれても計算している場合ではないと思ってしまうのである。

ぼくが好きでないのはわかっていても、母は仕事の前にぼくを送迎してくれた。1階のスーパーの駐車場でぼくを降ろす。ぼくはその脇の細い階段を上る。これも窓がなくて暗い陰湿な雰囲気だった。なるべくそろばん教室に行きたくないから、30秒数えて1段のぼるといったルールを決めて、なるべく上がらないようにした。

階段の途中に正方形の小さな窓がある。ずいぶん時間がたった後で、もう流石に駐車場に母はいないだろうと思って駐車場を見下ろすと、まだなんといるではないか。運転席の窓から心配そうに見る母と目が合ってしまう。必ず、ぼくの姿が通るはずの窓にまだ我が子が通らないから辛抱強く待っていたのだろう。せっかく間に合う時間に送っているのに、これである。車から降りて、「早く行きなさい」ということもできただろう。今のぼくならそうする。

でも、母は我慢して待っていた。あの目は心配だったのではなく、悲しかったのかもしれない。「こういうふうに育ってほしい」と願ってあれこれ習い事をさせて、お金を出すけど、どれも馴染まない。どれほど歯がゆかったことか。

そろばんも、やがて辞めた。覚えたのはそろばん技術ではなく、そろばんから逃げたくて、教室の壁に目をやりキョロキョロしていたら目についた「一、十、百、千、万、億、兆、京、ガイ、ジョ、ジョウ」といった10の乗数の呼称であった。今でも言える。寺の息子だからお経の念仏のように覚えられた。

でも、どこかで勘違いして覚えたようで、途中から小さい方、つまり10のマイナス乗の呼称が混ざってしまって、「コウ、カン、セイ、サイ、ギョク、バク、ビョウ、アイ、ジン、シャ、セン、ビ、コツ」と記憶の中では続くのである。ほんとうは一番大きい単位は恒河沙とか無量大数らしいのだが、そこにはたどりつけないまま覚えてしまった。

 

自分からやりたいといったのは野球で、ユニフォームにグローブに全部かってもらって喜んでいったけど、それも1回行ってもう行かなくなった。球拾いのときに遊んでいたらボールをプールに落としてしまい、それを取ろうとプールに長い竿を入れていろいろしていたらびしょびしょになるは練習に参加しないわで上級生に無茶苦茶怒られたからである。その中に近所の井上くんがいて、その井上くんはカバってくれると思っていたけど井上くんからもメチャメチャ怒られて、寄って立つ岸がなくなって足が遠のいた。繊細な少年だった。

絵と書道は近所の美術教室を営むハシバ先生にならっていて、これはちょっと続いた。絵は同級生の才女がむちゃくちゃうまくて、こりゃ向いてないはと思って途中でやめたことと、水彩絵具の片付ける洗面所が暗くて、洗面器が絵の具で汚れていてむちゃくちゃ汚かったことが原因であった。

でも書道は好きになれた。先生のアトリエが新しくなって、洗面所がきれいになった。これも大きいが、ほかにもある。あるとき、書いてもっていったら先生から「疲れてるね、もう帰るか?」と言われたことがある。心の中まで見抜かれて、書いた字をみて、そんなことまでわかるのか、とびっくりした。字は心を伝えるのかと興味が湧いた。

きれいな字を書く人、というより自分らしいフォントを持っている人に憧れるようになった。小学校のそれぞれの先生の黒板や学級だよりに書くフォントをやたら研究したりした。例えば、「た」の書き方でも先生によって全然違う。その興味は漢字や熟語のプロポーションに発展して、そのプロポーションへの興味はやがて建築の造形への傾倒につながっていくから、その後の人生にも大きく影響した。

スイミングも最初もこれまた校下外でものすごくイヤだったけど、スクールバスで通うようになり、そこで仲良い友だちができて、楽しくなった。ソフトボールはもともと仲のいい友だちが誘ってくれたから続いた。塾もこれまた田舎からバスで1時間、都会に通うはめになり、都会の小学生ばかりに囲まれ、最初は誰も知り合いがいなくて、授業や宿題は難しくて、いやで仕方なかった。

 

こう振り返ると、小さな頃のわがままで繊細で人見知りのぼくに比べたら、我が子たちはずいぶん習い事を満喫してくれている。自然と友だちもできてるし。「自分から習いたいかどうか」を大事にしている、からかもしれない。ぼくの小さな頃の、あまりなじまなかった経験からの反省があるから。親がこうなってほしいと与えても、ダメなものはダメなのだ。親の思うように育つ、そんなことはないと観念しなきゃいけない。何が我が子の人生に影響を与えるキッカケになるかも読めない。かといって、何も与えないのではなく、どうなるかはわからないけど、その子が興味を持って、生き生きできる世界と接続できるよう、いろんなチャンスを与えてあげたい。

母がしてくれたことは、いま孫で生きている。