ブラックホール

ブラックホールに吸い込まれた人、どうなるん?」(長女)

お風呂で。大きな掃除機に飲まれるように、ものすごく怖い存在のように想像しているようだ。

「別の世界が広がってるんじゃないかな。行った人、だれもいないけど」

「野原が広がってくれてたら、いいな。そこでお弁当食べて、テントもあって。」

『動物もいて?」

「そう、うさぎとか、猫とか」

原風景とでもいおうか。長女にとっての気持ちのよい風景って、そういうのなんだな。

実体験してそう思ったのか、空想のものなのかな。

春になったら、ピクニックいってあげたくなった。

空と宇宙

「ねぇ、月にうさぎって、ほんとうにいるの?」(次女)

長女と次女を公文に送った直後の車の中で。

「だれも、まだみたひとはいないね。いるとおもう?」

「いるとおもう」

 

「空って、どんなに高くいっても、ずっと空なの?」

空は青い天井のように考えて、高くまでいけばどこかで「ドン」と当たるイメージのようだ。

「空は天井みたいにあるのではなくて、宇宙とつながっているんだね」

よく分からない、という返事だった。

 

「飛行機で宇宙にいける人」になりたいそうだ。

 

最初の人間

「ねえ、一番最初に生まれた人って、誰?」(長女)

寝床で、ねかしつけのとき。長女からの質問は最近わからないことばかり。こないだもあったけど、わからなすぎて何を質問されたか忘れた。それを長女にいうと、彼女も忘れたらしい。一緒になって思い出そうとするけど、思い出せないまま、寝た。

チョコ

何人かの次女の友人が昨晩、家にクッキーやチョコを届けてくれた。次女もうれしくなって、あげたい子をリストアップして、急遽妻とクッキーを焼くことになった。妻も疲れているので、別にやらなくても、と思ったけど、乙女心をわかるのだろう、がんばっていちから仕込んで焼いていた。好きなオトコの子にも「ひとりであげに行く」と張り切っている。鼻の下を伸ばす表情が恋する女の子の顔だ。パパのことは全く頭にはないようだ。

長男が「おれ、このチョコ苦手や」といって渋い顔をしている。市販のもので、ぼくもこの手のチョコが苦手なのを彼もしっている。喉がイガイガするんだ。「親子だな」といいながら笑う。とはいえ、公文で友人がくれるやつは好きだそうで「あれはいいんだけどな」とチョコ全般ではなく「この手のやつ」が苦手なのだそうだ。

今は保育園でも小学校でもチョコを渡すのは禁じられているから、下校した後に個別でやることになっている。長女も何人かの友人にあげることにしたようだ。

読書めも〜『人間の愚かさについて』

<人間の愚かさについて/曽野綾子/2015/新潮新庫>


・死者のことを小説の題として「愛された人」と表現したのは、確かイヴァン・ウォーだったと思う。(中略)家族の遺体の出ない人は、行方不明になってはいても、どこかで生きているのではないかと考えるものだろう。少なくとも、小説家だから私はそう考える。
 あの人は、必ずどこかで生きている。名乗って出ないのは記憶を喪失したからだ。自分の名前も言えず、住んでいた場所もわからなくなったから、新しい名前と推定年齢を与えられて、どこかで暮らしているに違いない、と期待する。
 そして私は、必ず何十年か経ったあとで、思わぬ場所で、その死んだはずの家族と会うのだ。ある日偶然どこか地方の駅とか、都会の全く見知らぬ小さな公園の池のそばとかで・・・。私が駆け寄ると、その人は当惑したように私を見ている。「失礼ですが、どなただったでしょうか」とも言えずに、ただひたすら当惑して・・・。
 それでもいいのだ、生きていてくれてよかった、と私なら思う。彼が全く過去を忘れて新しい人生を受け入れているなら、それを壊さずにそのまま継続させてもいいとさえ思う。しかしそれでも生きていてほしいのだ。
 家族にとって、行方不明者の存在はそれほどに大きい。しかしその人の遺体が出てくるまで、大がかりな捜索をするのは、私は耐えられない。

・私はスポーツの世界で日本一、世界一になる、ということの意味が実はほとんどわからないのである。もちろん文学の世界でも、この点は同様だ。この作品が世界一の文学だという概念をもし誰かが決めたら、私はその作品を当分は敬遠して読まない気がする。
(中略)
 誰かが認めた一番でないとほとんど意味がないという価値観は、人文科学の世界ではめったに見られない現象である。それは数の世界で、質の世界ではないからだ。私の生きて来たのは、質の、しかも上質悪質などという分け方でさえないただ限りなく質の違いだけが問題でありかつ必要なのだという世界だったから、オリンピックの美学にはついていけなかったのである。
(中略)
書くという作業は、私にとっては基本的に肉体労働であり、身体が動かなくなれば、精神の気力も衰えることは眼にみえている、と私は感じていたのである。
 だから私は町の「へたくそなスポーツ愛好家」が「するスポーツ」は好きなのだ。とにかく何歳になっても体を動かし続けて、人間を保とうとする努力はけなげなのである。しかしオリンピック選手がどれだけ厳しい訓練をして来たかということになると、あまり感動しない。同じような厳しさは、作家の生活にもある。どんな職種にもあろう。
(中略)
最近の人はよく「元気をもらった」などと言うが、こんな奇妙な日本語の表現も昔はなかった。元気はチョコレートと違ってもらうものではなく、仕方なく自分でかき立てるものなのである。

・おそらく三十数年後の日本は、かつて考えられなかったほどの深刻な老人問題を抱えた時代に突入する。「お年寄りも安心して暮らせるようにしなければなりませんね」などという体裁のいい言葉は、現代でこそまあ通用しているが、その頃にはもはや聞かれなくなるだろう。どうしたら、老人を「始末できるか」が問題になる時代なのだ。
 しかしそのような時にこそ、かつて見られなかったほどの強固な、自己犠牲を伴う優しさも生まれるものなのだ。

・私たちは、完全に他社の立場からオリンピックを眺め、感動していればいい。しかし体を犠牲にしているのは他ならぬ当の選手たちなので、観客がそのことを全く気にも留めないでいていいということに、私は内心不安を覚えている。
 途中で選手生活を諦めた人の方が、却って健康な中年以後の暮らしを約束されているのではないだろうか。もしも私は選手の母親なら、息子か娘が途中で挫折して選手生活を止めてくれた時に、初めて安心するのではないだろうか、とさえ思う。
 
・マスコミは無責任そのものだ。すぐ「王子だ」「プリンスだ」「レジェンドだ」と持ち上げる。王子もプリンスも、数年のうちには年を取って王子やプリンスではなくなるのだ。そもそも永遠に続く王子やプリンスの魅力などというものはない。持ち上げられたら落とされるのが力学なのだが、私たちの平凡な暮らしでは、これほど激しい毀誉褒貶の波にさらされることなく、穏やかに生き続けられる。
 たぶん文章能力のない記者ほど、すぐこうした愛称だか、尊称だかを見るけると嬉しがって盛んに使うのだろう。

・どの選手も、失敗してもメダルを取っても、応援を感謝していた。(中略)もう少しほかのことをファンに伝えてもいいのではないか。そしてまた観客の方も、自分たちの応援によってその選手が勝ったのだなどと、どんな子供でも信じないようにきちんと現実を教育されるべきだろう。
 最近とみに目立つようになった応援という情熱は、根拠のない非教育的なものである。もっとも昔からこういう気風はあったのだし、それが別に悪いものとはされてはいないのだが、観客の大人まで「うちの町の誇りですよ」などと言う。年寄りがそう言って喜んでいるのはまだいいが、若者たちがそういう判断で大人になると、厳しい現実が見えなくなる人間になるだろう。
 学校の同窓、同県出身、同じスポーツ団体に所属していた選手が勝ったということと、自分の存在はほとんど何の関係もないことを、子供にもはっきりとわからせる癖をつけないのは、教育的でない。もちろん同一の県民性の中に、ねばり強かったり、雪をよく知っていたりする特性が濃いことはよくあり、或るスポーツ・クラブでは、他の同種の組織が教えてくれないようなすばらしい技術を伝授してくれることもあるだろうから、自分もそこの出身でよかった、という実感は持って当然だ。
 しかし、メダルを取る選手が出たからと言って「自分が勝った気になる」理由もなく「県の誇りです」ということもない。東京には約一千三百万人が住んでいて、たぶんあらゆる世界的頭脳や才能と同時に、けたはずれの犯罪者もいるはずだが、誰もそのようなことを、「東京の誇り」とも「首都の恥」と感じない。
 こういう意味での、少しでもなにかのつながりのある人が有名になると嬉しがる気風は、そのこと自体は悪くなさそうだが、ただでさえ弱い日本人の、個の気性の確立をますます弱いものにする恐れがある。

・人は全員が自分の生きる小さな場を持ち、誰も他者を本当には理解できない。その虞や深い絶望を前にして、時には、持ち前の鈍感さを救いにして立ち止まることこそ、平凡な人間の生き方であり、それが哀しい礼儀なのではないかとさえ思えるようになっている。

・人の住む場所は、家の内外共に平らであることが、平凡だがもっとも望ましい、という基本条件であった。

・一つの部屋に二面以上の開口部を設けたのである。一方だけの窓では風は抜けない。風通しが悪いのは、暗いとか黴が生えやすいとかいうことだけではなく、精神にも影響すると母はよく言っていた。明るさも必要だが、何よりも外と通じている感覚が大切だ、というのである。生活と社会が繋がっているか、違った人の意見と終始触れているか、解釈はどちらでもいいのだが、暗い空気の淀んだ空間にうずくまって、自分の考えと姿勢に凝り固まることを恐れたのだろう。(中略)
 結果的に私は南と西に窓が空いている部屋を私の居場所にした。私は冬の日差しの短い季節に寂しく感じることが多かったので、西日が一分でも長く当たる場所を動物的に選んだのだ。

・私もできれば仕事を楽に済ませたい。従来のやり方を踏襲して、さっさと目的を果たしたい。その方が、第一経済的でもあるのだ。世間はおそらく、それを順調というのだろう。
 しかし人間も、それだけではいけないのだろう。難関がない人生では、味のある人も育たないとよく言われる。人間はあらゆることから学ぶ。願わしいことから学ぶのは当然だが、実は願わしくないことから何かを発見することの方が多い。

・いきなり、平和に到達するのではない。苦い闘争が現世には終始ついて廻るのだから、それ故に平和に輝きながら、我々の目標になるのだと思えば、すべてのことは、その存在の意味が見えて来るものだろう。

・子どもの貧困が許せないことだという原則は確かにそうなのだが、人間が大成するには日陰の部分も要る。失意の時期も必要だ。運命にも冬と夏が要るのである。それを今の教育者、ことに教育行政に携わる人は、わかっているのか。わかっていてもそうは言えないのだろうが、幸福と安定追求にだけ熱心である。

・毎日水を欲しがるシクラメンの特徴は、植物の中でも数少ないもののような気がする。植物は、十分乾いた時に、たっぷり水を与えるのが原則だ。欲しがらないうちにおもちゃを買ってやるバカ親と同じで、水を与えすぎると、植物は根腐れする。つまり下痢である。

・背徳を描くのも、文学者の役目だ。小説まで道徳的であれ、と言われる理由はない。

・私は覆面でものを言う人とは無関係でいるくらいの自由はあるだろう。

・皆が情熱をこめて要求した、作家の「謝罪」とは一体どういうものなのだろう。作家は古来、いい人であるとか、学問的に正しいとか、徳の高い人であるとかいう保証はどこにもなかった。今もない、と私は思っている。

台風

宿題の自学で、息子は「台風はなぜできるか」を調べて書いている。

コリオリ力って、しってる?」

聞いたことあるような気もするけど、忘れている。

「遠心力みたいなもんじゃないか」とぼく。

「慣性力って、書いてある」とiPadをみながら答える息子。

「遠心力も、慣性力や」

「遠心力の中に慣性力があるの?」

「いや逆。」

でも調べてみたら、遠心力とコリオリ力って、違うようだ。帰ってきたら、訂正しないと。

なんで台風を調べようとおもったら「なんとなく」とのこと。前も一度興味を持ったらしい。

地学に興味、あるのかな。親の知らないところで興味は広がっている模様。

ちなみに、自学のノートは班で持ち回りだそうだ。息子が書き込むページの隣に、丁寧な女の子らしい字で調べ物を書いている。最初は別の子のノートを間違って持って帰ってきて、臆面もなく書き込んでいるのかとびっくりしたけど、そうではなくて安心した。別の子の学習も見れて、いい企画だな。

はじめてのスキー

先日の友人家族とのスキー合宿で、次女はスキーデビューをはたした。午前の部、午後の部、両方親元を離れてスキースクールでがんばる。親としてはどうなるか不安だったけど「やりたいという意欲は一番」あったそうで、積極的に楽しめたらしい。

少しだけ直滑降をして、ハの字で止まるところまで、できるようになったそう。息子と長女は友人に任せて、スクール後、妻とぼくと3人でリフトに1回だけ乗せることにする。

リフトの上ではニコニコであった。

リフトがつく。「いっせいのーで」で3人で立とうとすると、見事に次女が転倒、それを助けようとしたぼくも進むリフトに巻き込まれて転倒。スタッフがあわててリフトを停止させて、次女とぼくのスキーを外す。「なんであんたまで倒れるの」と妻。

次女はびっくりしたのか泣いてしまった。最初のリフト。トラウマにならなければいいのだけど。

スキーをはめ直して呼吸を整えても、次女の心はおれたままで、滑ろうとしない。結局、妻とぼくとでかわりばんこで後ろから彼女を支えながら4本足で下まで滑ることになる。まだまだ、時期尚早であった。

下についたら安心したのか、次女にも笑顔が戻った。なんとか「スキー楽しかった」で締めくくれそうだ。

来年、もう一回スクールに入れば、いけるようになるかな。