芝生はり

芝生を貼る晴天の日曜日。植木屋さんに手伝ってもらって、厚さ2センチの30センチくらいの正方形の芝生を次々を市松に並べていく。1200枚くらいかな。見るからに元気な芝生。ホームセンターに並べられた薄い緑色のものとはやっぱり違って濃くてピンピンしてて、生命力がある。しかも均一で乱れていない。もともとこの正方形になる前はどこでどう育ってここまで運ばれてきたのだろう。職人さんに聞くと、だだっ広いところで育て、機械が上手にめくって、裁断するのだという。ゴルフ場みたいなところなのかしらん。

そんなことを考えたり話しながら、ひたすらペタペタ並べる。根付くように石を避けたり雑草を抜きつつ。カニを食べるときのように自然に無口になる。単純作業は楽しい。前日のバスケの試合で負けた悔しさが消えてゆく。

手伝うといってた息子は友達と遊んで全く興味なし。次々我が家に友達が入っていき、出て行く。中には名前を知らん顔のヤツもおる。

長女は優しそうな植木屋さんに近づき、なれなれしく話かけて、いろいろ教えてもらって、ペタペタと貼らせてもらう。次女は長女を追いかけながらスコップで土を掘ったり。

要領を得た職人さんたちがいたら作業はどんどん進む。15時には貼り終わってしまった。雑草だらけの庭が見違えるように上品とした青々さになった。雑草にも愛着はあったけど、やっぱり気持ちがよい。目地に入り込んで、根を張らせるための客土を最後に巻いたので、今はまだ砂漠のようになっている。雨でやがて客土は自然と染み込んでいくんだとか。ほんとかしらん。

油断して日焼けした腕が赤い。妻が「ほしい」といった芝生。自分では決断できなかったけど、わーいと長女と次女が自然と走り回っているのをみて、やってよかったと思う。表面に芝が出てくるのが楽しみだ。そして、新たな雑草との闘いがはじまる。芝かりき、買わねば。

風のむき

風が強い朝。ごはんのとき、窓からみえる雑木林の樹々が大きく揺れているのをみて、長女が「ねぇ、風って、こっちから吹いて、すぐにこっちから吹くの?」と不思議がる。樹が風で左に傾いて、次に右に傾く。このスイングする現象を、風の向きが逐一変化している、と彼女にはみえている。

え、そうなの?

パパは風の向きは変わってなくて、同じ方向から吹き続けても、樹がもとの形に戻ろうとするからだと思ってたけど、違うのか。強くなったり弱くなったり、向きが変わったり、もっと複雑なのか。子どもの視点が、うらやましい。

はいどうぞ

今朝は天気がいいので保育園で歩いていこうとでかけた。二人とも、足取りがウキウキしている。ちょっと走ったところで歩みを止め、いつも以上に道草しまくる長女次女。道端にたくさん花が咲いていたり、虫が飛んでいたり。ヨモギには偽物と本物があるそうで、保育園で習ったそうで、「これ、にせものだ」と長女。こないだは「この草、根っこ、食べたよ。すっぱかった」といってたな。

たんぽぽの花をみつける。次女が先に手を伸ばして摘む。長女は譲る。次女の耳につけてやる。

先にいくと、今度は綿毛をみつける。次女は花より綿毛が好きで、花を「もういらない」と放り投げる。ごめんタンポポ。「一緒に吹こう」と次女が吹きかけているところに長女も息を吹きかけるが、次女は自分だけでやりたいようで、長女の口から遠ざけようとする。それでも長女は寛容。歩くともう一つ、綿毛があった。次女はそれを手にとり、「はいどうぞ」と長女に渡す。自分が満たされていたら、もう一つは譲ることができるらしい。

次女が長女の両手をつかんで「丸くなろう」という要求している。これは困る。丸くなるとその場で停滞する。進まなきゃいけないことを長女はわかっているので、歩こうとして次女は後ろ歩きになる。続かない。

そうこうしているうちに、10分たてども100メートルも進んでなくて、まだ道のりは10%くらいか。えらいこっちゃ。時計をみたら、登園時間になってしまっている。仕方なく家に戻り、車で行くことにする。家に戻るぞと告げても、案の定、次女は「やだ、歩いていきたい」とダダこね。気持ちはわかるけど、このペースだと一時間かかるから勇気ある撤退。次女が泣きそうになっているのを長女がいかにもお姉ちゃんらしく寄り添い家にむかって一緒に歩いてくる。ぼくは先に車を取りにいって、車を出す。春のうららかな散歩を邪魔してるようで、なんかイジワルしているようで、心が痛む。

車のなかで、長女と話をしているうちに次女の機嫌はもどってくれたみたい。長女のお姉ちゃんぶりと、次女の「はいどうぞ」、が今朝みつけた二人の成長。そして、やっぱり朝は早く起きないと。反省。

 

宿題と小言

小学校に入って、当然だけど宿題と向き合うことになる。「宿題」。なんとも窮屈な響き。本当は遊びたいのに、自由を奪うかんじ。「しなさい」という圧力。作用反作用は普遍の原理、遊びたい盛りの少年は自ずと勉強を遠ざけようという心理がはたらく。「宿題やったら遊んでいいよ」。つい口にしてしまうこの言葉。宿題からしてみたら、なんなんだよその差別、ってな最低な言葉だろう。宿題は遊びにならんのかい。子どもからは常に疎まれる存在かい。

父親として、決めていることがある。「勉強しなさい」は子どもにはいわないこと。ぼくが親から何百回も言われて、苦しかった言葉。小学校の頃はまだ素直に聞くこともあっただろうけど、反抗期の中学校3年から高校のときはひどかった。言われる度に、もっとしないでやろうという不服従マインドがエスカレートして、親の心労は絶えず、親との心理的な距離はどんどん離れ、結果、親不孝をした。

「勉強をしなさい」という主張には、「なぜ」を与えるのがとってもむずかしい、とぼくはおもう。小学校中学校は義務だから、というのはあるのかもしれない。でも、それは本人が決めたことじゃない。

とはいえ、なぜ学校という建物があって、先生がいて、教科書がタダで与えられているかは説明するようにしている。それが与えられるために、世の中の大人たちはどれだけ一生懸命働いているか、それを説明するのは義務な気もする。世界的にもとても恵まれているはずで、見やすく図があり、しかもカラー印刷されている教科書のありがたみは知ったほうがいい。

 

先日、息子とプノンペンに行った。そこで、公立の学校にさえも通えない子どもたちが通うプライベートの学習支援の施設にいく機会に恵まれた。名前は「ひろしまハウス」という。設立時は広島県広島市が前面的にバックアップし、今の運営資金は広島の市民団体から出ている。原爆と大量虐殺という悲劇を体験した2つの都市の交流。建築の設計は建築家の石山修武さんで、聞けば石山さんの最高傑作といわれているそうな。当時早稲田の先生で、建設時は建築学生がボランティアで次々召喚され、レンガを手でひたすら積んでできた建築。斜めの柱、浮いた屋根。造形的にむちゃくちゃかっこいい。10年前の完成だけど、昔からある歴史遺産のような迫力がある。窓はなく、壁と屋根は縁が切れているから全体が半外部のような空間で、強いプノンペンの日差しがあちこちから光の塊となって降り注いでくる。屋上のテラスでは風が通り、屋根の日陰でスズメが羽根を休めている。心地よいのは人間だけじゃないのだろう。ちなみにジェネラルマネージャーのともひろさんは、プノンペンのプロサッカーリーグで現役で活躍するバリバリのサッカー選手。

そこでは日本語の授業も行われている。「わたしは すしが だいすきです たかいけど おいしいです」小さなわら半紙に、書いてあるひらがな。それを精一杯の大きな声で数十人の児童が読み上げている。勉強を楽しんでいることが、ひしひしと伝わってくる。卒業生には大学で日本語を専攻したり、日本語教師になった人もいるらしい。海外の人から日本に憧れがある、といわれると素直にうれしくなる。

大きな声に圧倒されながら、学ぶってこういうことなんだな、とまざまざと見せつけられた。この学校もタダだ。でもこの環境のありがたみを、きっとこの子たちはわかっている。授業のあと、テストの成績順にノートや鉛筆がもらえる。うれしそうに、目がキラキラしている。ここには、「なぜ」がある。希望だ。

息子がどこまで彼らのひたむきさを目に刻み、何を感じてくれたかはわからない。でも、日本に帰ってきてからも、「わたしは すしが だいすきです」と時折口にして、「あのひろしまハウスの子たち、すごかったよね。おれ、クメール語で同じ言葉はなせないもん」と感心しているところをみると、よほど印象深かったのだろう。日本語が逆輸入されている。

とはいえ、かといって帰国後すぐ「じゃ、おれもがんばって勉強するわ!」となるわけがない。連休を遊んで過ごした息子は公文の宿題がたまっていて、夜遅くまで机に向かっていた。水泳のあとだから、眠たそうに目をこすったり、スカスカの前歯を気にしたり、ヘソをいじったりしている。だめだこりゃ、とおもったので風呂に入って早く寝ろと促す。「いや、やる」となぜか強情を張る。ここでも作用反作用。そしてまたぼーっとしている。やれやれ。

それでも、なるべく「やれ」とはいいたくない。「決めたなら頑張れ、応援する」や「やらないならお金もったいないから、やめろ」はいう。かすかな違いでしかないけど、義務や強制のかんじで勉強させることに至るのは、しない子より、親に原因があるはずだ。希望を与えれば動機は生まれる、とプノンペンでぼくが教わったこと。100回の「勉強しろ」より、もう一回ひろしまハウスに連れていくほうがよかろう。

だからいわないぞ。むしろ、あくびをする息子に「勉強はもういいから、とっとと寝ろ。」と声をかけよう。コイツが大人になっても「仕事しろ」というより「仕事はもういいから、とっとと寝ろ」という親になってあげたい。何はともあれ元気にやれ、それが親として一番の願いだし、「するな」という環境のほうが、実際はしてたりする。

それに希望を見出すのは言葉ではなく、やっぱり体験なわけで、部活とかに拘束されるまではできるだけあちらこちら連れ回して世界を広げてあげたい。楽しくなって好きになる、そして希望を持つ。目指したいのは、そのサイクル。

寝かしつけ

今晩はクックパッド先生をみながらチキンライスをつくってみる。わりとおいしくできた。冷蔵庫の野菜と鶏肉を処理できてうれしい。妻が仕事があるそうで、長女次女をお風呂に入れて寝かしつけまでやる。寝るレイアウトはたいてい長女と次女の間で揉めるけど、今夜はすんなり、ぼくの左側に、上の顔の隣に次女が斜めに、その下の腹のところに長女が割り込んで収まるという変則形になった。長女がなぜ今日は下の気分なのかわからないが、「わたし、下のほうがいいもんね〜」と次女を挑発するような言葉をいうというからも、ほんとうは納得いっていないのだろう。次女も「上がいいもんね〜」と応酬している。ぼくのTシャツがめくれ腹が出ていたのを長女は「おへそ出したらだめよ」とたしなめる。いつもは真っ先に寝るはずが、今夜は寝そうにない。

寝つくときくらい仲良くしてほしいなと思いながら黙って目をつむっていると、次女が先にウトウトしはじめる。長女はモゾモゾしている。

長女、手を広げて、次女の名前を呼ぶ。眠そうな次女も「なーに?」と返事をしてうっすら目を開けると、長女が手を広げているのをみつけて手をつなぐ。手をつないだまま、次女はスヤスヤ眠りについた。

長女は、ここでもガマンしてたのかな。身体をずらして長女の顔の前にぼくの顔をもっていってやると、いつもの態勢になって落ち着いた表情をしている。肌が弱いので寝る前はいつも痒くなる腕のあたりをさすってやると、寝た。

次女は好き放題にわがままを言葉にする。それが自然な時期なのだろう。それを受け容れてあげることができたり、ガマンしきれなくなったりする長女。仲良く遊んでてもたいてい最後はケンカになっておわる。とはいえ観察していると、次女は長女が憧れで、できなくても、同じことを、たとえば同じおもちゃで遊んだり、お菓子を食べたり、がしたいのだね。動機はとてもシンプル。根っこにある感情はいじわるではない。尊敬だったり、すごいポジティブな気持ち。

さっき長女が差し伸べた手は、和解の握手のようにみえた。ほっとしたし、姉妹の関係が羨ましかった。