朝のスーパー

朝のスーパーに初めていって驚いた。スーパーは朝が一番混むのか。駐車場も200mくらい入り口から離れた隅っこまで車がびっしりでこれまでで一番遠いところにしか停められない。

晩の売れ残りそうなものに割引のタグが貼られる時間にいって、その割引で買わないと損をした気分になる。なんとなくみんなそうだろうと思い込み、職場の帰りに立ち寄る晩が一番混むであろうことを疑ってこなかった。

違うのか。割引なくても、新鮮でいいものを買いたい層がかくもいるのか。そのひとたちからすれば、晩にあるものなど「残りもの」で質がよくないもの、なのだろう。

客層はだいたいおじいちゃんかおばあちゃんである。

気づいたことがある。その客層はじっくり、野菜を選んで手に取る。ぼくからしたら、とうもろこしもトマトも、だいたい同じに見える。後ろからすれば、「とっとと選んでよ」と少しじれったい。でも、この人たちは知っている。野菜だって魚だって、一つ一つ違うということを。

工業製品に囲まれた時代に育ったぼくは、生鮮品だって「だいたい同じものが並んでいる」と思い込んでしまっているのである。たしかに豚肉や牛肉はだいたい同じ加工がされていて、ほぼ違いはない。これは養殖されて工場で加工されているから工業製品に近い。

でも畑に行ってみると、同じ畑、同じ土にできるものだって、一つ一つの野菜が違うほうが当たり前なのである。きっとこのおじいちゃん、おばあちゃんたちはそれを肌身でわかっている。のだから、朝来て、一番いいものを選びたいのだろう。値段が同じなら、そうしないほうが損という感覚なのだろう。

保育園でも金曜日は野菜を売っている。いつもはお迎えのときに買っていたのだけど、朝の送りのときに買っている保護者の方がいた。なるほど、と思った。

工業製品の一物一価に慣れてしまうと、いつのまにか生物にまでその考え方を敷衍しようとしている自分に気づいて、怖くなった。

昨日は近所の友だちの実家の畑の農作業に、我が子たち3人と妻が便乗させてもらっていた。ジャガイモ、ネギ、スイカまで、帰ってきたらたくさんいろいろおすそ分けしてもらっていた。次女も土から大きなジャガイモを抜いて喜んでいたそうだ。軽トラの荷台にも乗ったのが楽しかったそうだ。収穫の現場を体験する。実にありがたい。この子たちには、スーパーが畑、みたいな感覚にはなってほしくない。ちゃんと育てて作る人がいて、できる季節があって、土から、海から川から生命が出てきて、それぞれ違いがある。その当たり前を、まずは知ってほしい。自戒を込めて。