おふろで

梅雨の涼しい日がつづいていて、昨日はお風呂は湯をはることにした。今日は次女と二人ではいる。長女はピアノの練習を妻としている。

ぼくが先に湯船に入り、次に次女をひょいっと抱っこして脚の上に乗せようとすると、彼女の身体が半分くらいしか湯につからず、それだと温まらないと「もっと深くがいい」とぼくの身体から降りてひとりで座って肩まで浸かる。

ぼくが脚を曲げて膝小僧が水面より上に出ていることを発見して、「ひざ、つめたいでしょ。お湯につけて」といってくる。脚を伸ばすと膝は低くなって水面より下にいく。それを見て安心する。

遊びたくなって、また膝を曲げて水面から出して「ひざ、出ちゃったよ」というとぼくの膝を手でおさえて「だめでしょ、下げて」と沈めようとする。しばらくしてまた曲げて出すと「ちょっと、だめでしょ」と今度は膝に全身を載せて沈めようとして「これで大丈夫」。それでもまた膝を曲げるとケラケラ笑いながら沈めようとする。

膝を湯船で曲げるだけでこんなに楽しくなるのだからすごい。しかも、ただ膝を水面に沈めるゲームではなくて、もともとは「パパがそれだと寒いだろうから」という他者を慮ることが動機なのがうれしいね。

しばらくしたら身体が温まったのだろう、湯船の外にでて遊びだす。曇ったガラスドアに絵を描きはじめる。今日は蝶の絵。

「蝶って、脚があるのかな」

「あるよ」

「ふうん。小さい?」

「細くて小さいね」

「お口は?」

「お口はね、ストローみたいなお口で、普段は渦巻きみたいに、あ、さっきテーブルでお絵かきしたでしょ、渦巻き。あれの形になってるんだ。花の蜜とか吸うときに、伸ばしてストローにするんだよ」

「へぇ。おいしいのかな。飲んでみたいな、蜜。」

「蜜ね、でも飲んじゃったら、チョウチョさんの分がなくなっちゃうね。」

心配そうな表情になる。

「花の蜜は、ぜんぶチョウチョさんが飲むの?」

「いや、ミツバチさんとかも飲むね」

「ふうん。チョチョさんとミツバチさんって、仲いいのかな」

「どうかな〜」

同じものを取り合うと、人間だとたいがい戦争になるけど、両者はどうなのだろう。

蜜はあなたの分はないですよ、というと「んじゃ、現在全部チョウチョの独占かよ」という思考になるのもなかなかロジカルで油断できない。

お風呂で他者を気持ちを慮る気持ちと現象を理解しようとする思考の端緒をみつけることができた。もうすぐ四歳。