お酒の時間

人は変わるという話。東京に住んでいた3年前まで、家でいわゆる晩酌は全くしなかった。する気がさらさら起きなかった。週に3回くらい飲み会があったからかもしれないけど、お酒は友人知人と飲むから楽しいものであって、家でチビチビ飲むなんて考えられなかった。お酒が好きというより、会話が好きだった。

時はたって地方に住むようになり、さらに週の半分しか働かなくなったいま。家族が寝静まった居間で、毎日酒をチビチビ飲んでおる。ウィスキーはCLAYMOREが常連となって、この時間がなんとも愛しくなっている。ひとりで飲みすぎるから、誰かに止めてほしい。辛子明太子も止まらないから無理やり冷蔵庫にしまう。しかもいまの季節はベランダに出て、蛙の声を聞きながら、遠くの街の明かりをぼんやりみる時間は至福だ。刺す虫もいない。

楽しくて刺激的だった飲み会に行かなくなったのは、お金がなくなったことと、なるべく子どもと夕食を一緒にしたいのが主だけど、あんなに社交的だった自分はどこにいったのだろう。土の上を這うような沈殿する日々を過ごしておる。

都会に暮らしていたとき、子どもは妻に預け、随分自由にさせてもらったものだ。それだけ、外の誘惑が沢山あった。新たな出会いも自然とたくさん生まれる。外が、いや外も、楽しかった。とはいえ、今が自由でないというわけでは決してない。今も、というかむしろ今の生活のほうが自由だ。家庭にはお金と時間を供給するのが親の役割としたとき、もちろん両方を十分できたほうがよいけど、ぼくなんぞの能力ではそれはむずかしい。都会のときはお金、地方のときは時間というシフトしたという話で、そのしわ寄せがお酒への態度にあらわれている。妻の寛容さには感謝しなくてはいけない。

やがて、酔いがまわり眠たくなってくる。風呂に入って、布団にいこう。その移動が1分もかからず、襟元を正して電車やタクシーに乗る必要もなく、シームレスにそのままいける。この気軽さが、なんともいえない。もう居酒屋で酔うことができなく思えてくる。自宅カラオケセットだけは買うまい。でも時間の問題な気もする。

早く寝ればいいものを。そう思う。もともと三度の飯より寝ることが好きな人間だし、お酒を買わないほうが経済的だ。朝も快適に、早く起きれて、子どもとも遊べる。できればなくしたい。それでもなぜ、今日も飲まずにいられないのだろう。

sabaaticalな時間。最近、無意識、性格には潜在意識と呼ぶような、意識できないけど、自分が感じていること、考えていること、に興味がある。そこにほんとうの人間性や、底力が眠っているような気がする。見る夢もその一端を顕しているのかもしれない。脳がアイドリングしているようなこの状態は、そこを垣間見るチャンスな気がしている。地を這うような生活をしていると、その部分にこそ本質があるように思えてくる。目に見えることなど、たかがしれているんだ、きっと。