読書めも〜『中動態の世界 意志と責任の考古学』

スピノザ 自由意志の否定/「太陽がどうしても近くにあるように感じられる」
アリストテレス 10の『カテゴリー論』 
*トラクス『テクネー』 「中動(メソテース)は、部分的に能動を、部分的に受動を示し、たとえば「pepega[私は[そこに]留まっている」「diephothora[私は正気を失っている]」「epoiesamen[私は自分のために[何かを]つくった」「egrapsamen[私は自分のために文書を書いた]」などがある。

・太陽までの真の距離を知ったとしても、太陽の光を浴びれば、われわれは「やはり太陽は近くにあるものとして表象する」のだ。

・これらの表現において完了時制が示しているのは、主語が何かを遂行する(能動)のでも、主語が何かを被る(受動)のでもない、主語がある状態であり続けるということだ。
・つまり完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉するということである。そしてそのような特別な地位をもつ時制である完了が、中動態と深い関係をもつ。

・メソテースに対応する形容詞メソスは、古代ギリシア言語学において、二項対立の図式に当てはまらないものを指すのにしばしば用いられた。

古代ギリシアまで遡り、「意志」概念の哲学史とでも言うべきものを描き出した『精神の生活』第二部のなかで、アレントギリシア世界が「意志」を知らなかったという事実に注目している。「意志の能力は、古代ギリシア人には知られていなかった」

・そして、能動態と中動態を対立させるパースペクティブが残存していたギリシア世界には、意志の概念が存在しなかった。

・プロアイレシスに対応するのは意志ではなくて、リベラル・アルビトリウムだと考えねばならない。それは自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追求する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない。

・選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

・とにかく、過去にあったさまざまな、そして数え切れぬほどの要素の影響の総合として、「リンゴを食べる」という選択は現れる。それはつまり過去からの帰結としてである。

・ならは、その選択と区別されるべきものとしての意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもその概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。

・責任を問うために、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。

・選択と意志の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
・暴力には大きな限界があることが分かる。暴力は相手の身体を押さえ込み、受動性の極に置く。したがって、そこからは行為を引き出すことはできない。言い換えれば、「暴力の行使それ事態によって服従を獲得できない」。服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。

フーコーの権力論は、いわゆる能動性と受動性の対立を疑わせるものである。権力によって動かされる行為者は、能動的でもあり受動的でもある。

・権力の関係は、能動態と受動態の対立によってではなく、能動態と中動態の対立によって定義するのが正しい。すなわち、行為者が行為の座になっているか否かで定義するのである。

・武器で脅されて便所掃除させられている者は、それを進んでするのと同時にイヤイヤさせられてもいる。

アレントはそのなか(『人間の条件』)で、政治の条件とは複数性であると述べている。
 複数性とは、人間が必ず複数人いるということである。人間が複数人いるということは、そこに必ず不一致があるということだ。したがって政治とは、そうした不一致をもたらす複数性のなかで、人々が一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動に他ならない。この定義は間違いなく政治の真理を言い当てている。おそらく、数ある政治の定義のなかでも、もっともすぐれたものの一つであろう。

・中動態はあるときから抑圧された。能動態と受動態と対立させるバースペクテヴこそが、この抑圧の体制である。

・意志しようとするとき、人は過ぎ去ったことから目を背け、歴史を忘れ、ただ未来だけを志向し、何ごとからも切り離された始まりであろうとする。そうして思考はそのもっとも重要な活動を奪われる。(中略)すなわち回想を忘れるのだ。
ハイデッガーはつまり、意志することは忘れようとすることだと述べている。

・回想を放棄することは、思考を放棄することに他ならない。

・われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。
 一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。

・歴史は人間が思ったようにつくり上げられたものではないだが、それは人間がつくった歴史と見なされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。人間が参照の枠組みを選んだことなど一度もない。人はすぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照の枠組みのもとで判断を下すほかないのである。

アレントがまず注意を促すのは徳が善とは必ずしも一致せず、悪徳が必ずしも悪とは一致しないという事実である。徳とはここで、人間の社会のなかで通用しうる、そしてまた通用している道徳的規範のことを指す。大半の人が同意できる手本のようなものだと考えればよい。

・これは言い換えれば、善と悪には、人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがあるということに他ならない。

・しかしこの過剰さを知らない人、この過剰さに目を向けようとしない人は徳に絶対的な善の役割を与えようとする。

・善は過剰である。過剰であるがゆえに、それは悪を暴力的に排除する。そしてまた、過剰であるがゆえに、悪徳を批判しながら徳に従って生きようとする市井の人にはその意味が理解できない。

・善は徳のように同意や通念に依拠しない。だから、「温和に行動するのではなく、力強く、実際暴力的に自己を主張する」。

・徳は犯罪を阻止するだけでなく、善が行使する暴力をも罰せねばならない。徳は法をもってこれを遂行する。

・人間がその性として同情し、また善を求めることを認めつつも、法と政治をそこから峻別し、その性に惑溺することなく徳を徳として追求すること−おそらくそれが政治と人間をめぐるアレントのヴィジョンであったのだろう。

・完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らいないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。