関取花

2年ぶりに関取花ちゃんのライブに行けた。長女をつれていった。長女は1歳のとき、New Accoustic Campで一緒に「むすめ」を聴いた。これはとんでもない天才シンガー現れたと勝手にファンになった。いまやNHK教育で「親知らず」が流れていたり、もうスターシンガーになってらっしゃる。でも楽しいMCでは初心わすれるべからずな謙虚さが随所に感じられてほっこりする。一方で、曲と歌詞はものすごくクールで、それでいて演歌のような影がある。こんなセンスフルな子を息子が連れてきたらうれしいだろうなぁ。ちなみに娘につれてきてほしいタイプは先日のサッカーのコーチのような絵に描いたような熱くてまっすぐな男である。最近こういうの多い。

長女はパパとデートということで保育園から帰ってきたらワンピースのスカートに着替えて、ネックレスとイヤリングとブレスレットを小さな青色の巾着袋に忍ばせた。

「昨日から楽しみにしていた」と車の中でうれしいことをいってくれて、一緒にドライブスルーでモスバーガーを買って食べる。

ライブハウスで椅子に座ると、巾着袋からそのアクセサリーを出してつけだす。イヤリングをつける仕草はすっかり女性だ。小さな子は彼女だけ。

開演まで10分くらいあって、「花ちゃんまだ?」とじれったそう。「もうすぐ」を何回も繰り返していると「もうすぐ、っていっても来ないじゃん」とげんなりしはじめたので「あと60秒数えな」といったらほんとに60秒たったら花ちゃんが入ってきた。

やっぱり「親知らず」になると顔がパッと明るくなり、楽しそうに聞いていた。「朝」も「おはよう」がサビで連呼されていて、「これ、インドネシアだったら『スラマパギ』の歌だね」という。最近インドネシア人のクラスメイトのために覚えた言葉。

今日は「むすめ」は唄わなかった。残念だったけど、代わりに「もしも僕に」が最後の曲で、これまた最高であった。親から子へ伝えたいことをすべからく代弁してくれている。

8時半がきたら体内時計がきっちりすぎの長女は8時半を過ぎたらウトウトしはじめた。「もしも僕に」は覚えてないかもしれないな。帰り際、その曲が入っているアルバムを買って、ウトウト娘も辛うじて花ちゃんにタッチをしてもらえた。抱っこしながら駐車場に向かうと少し目がぱっちりして、「CD、車で聴きたい」と一緒に余韻に浸ろうとしたけど、車が走り出したらすぐに寝落ちした。

次女はさすがに小さなライブハウスで1時間強座らせるのはもたないと判断して残念ながら次回に見送った。ライブハウスの椅子は狭くてその判断は正解だった。たぶんすぐ「もうおウチ帰りたい」になっていただろうな。長男と次女は妻とサイゼリアにいったそうだ。

てなわけで、まだ娘二人と花ちゃんを楽しめたことはないので、また行く。

近い

ついに熊が保育園の園庭に出たそうだ。保育園の先生もみたのだとか。お迎えにいったらパトカー3台いたのだとか。家のバス停近くでも目撃情報。

ここまで近いとさすがに焦る。狩猟免許取ったほうがいい気になってくる。

子どもたちに背中を向けたら襲ってくるから目をあわせながら後ずさりを教えるが長女と次女が怖い怖いと怯え始める。家には入って来ないよといっても落ち着かない。いつも園児が楽しんでる裏山に帰っていったとか。

保育園では園児みんなに「命に関わるお話だから」と先生からお話があったそうで、みんな真剣に静かに聞いていたと長女。

この丘で住む以上共存するしかないのだけど、さてどうしたものかしら。

長女のサッカー

初めて長女のサッカー教室を見に行ったら、みんな横一列にならんで先にならんだボールをヨーイドンで取りに行くというゲームを初めていた。最初のヨーイドンで隣の友だちと同じボールを取ろうとして頭をゴチン。二人とも泣いて、脇のベンチに退場となって、氷で頭をコーチに冷やしてもらっている。ぶつかった友だちのほうが泣いている。長女はおとなしく冷やしている。

その後のミニゲームにも入れず、その日はずっとベンチで冷やしていた。なんかプレイできそうな気もする。「もったいないなぁ」というケチ根性が湧いてくるが、大事を取ってくれるのはありがたいし、そういえばこの年長の間は教室は無料なのであった。

父としては大事な我が家のプリンセス、怪我がつきものの「こんな野蛮なスポーツおやめなさい」という気持ちがないわけでもない。弓道くらいがいいと思っているが、コーチは優しいし上手いし長女の憧れなんだろう。息子の影響も大きいようだ。

全く意に介さないで「また行きたい」というので、見守って応援することにする。ユニフォーム姿でひたむきに球を追いかける姿はまだ見れていない。みたらいいなと思うのだろうな。

三国志

サッカー教室の小さなときから息子を相手してくれるコーチが三国志が好きということで、教室のあと、最近読破した息子と話をしてもらえた。どの人物が好きかを言い合って、それぞれのエピソードを話して盛り上がっている。残念ながら、ぼくは読んだことがないから輪に入れない。「諸葛亮孔明の死に際って、面白いんでしょ」と振った話題も息子からの又聞きである。「本当によく知ってるな〜。ほんとに読んでるんですね。」とコーチに関心してもらって得意気である。「コーチ、孔明みたいなサッカー選手になりたいなと思ってた。」「あぁね」と通じ合っている。

コーチが一番好きなのは馬謖という者らしい。息子もその有名な「泣いて馬謖を斬る」という下り思い出してさらに盛り上がっていた。

コーチは63巻あるマンガを読みまくったらしい。息子にそのことをいうと「本のほうが三冊ですむから楽でいいわ」という反応。

ドラゴンボールよりだいぶかかるやろ、63冊もあったら。ってか、ドラゴンボールって小説あるん?」

「ないなぁ。あっても、面白くはないやろうな。」

「たしかに、ズバババババ、とかばっかりやしね。」

三国志とか西遊記は、本でも面白いんやなぁ」

「たしかにね」

おかげで帰り道はいつになく口数が多い。彼はブレイブボードで、ぼくは自転車。坂になるとぼくが彼の手を引っ張ってやる。

コーチは水滸伝も好きだそうだ。「ただ山賊が主人公だったり、オトナのドロドロがあったりします。ちょっと、ちがうんですよね、三国志は」とのこと。それも含めて息子にいうと興味を持ったようだ。父ちゃんも薦めていたのだけど、やっぱりコーチ、しかも読んだ人の説得力はすごい。

コーチは長女も保育園のサッカータイムで面倒をみてくれていて、積極的なことをほめてくれた。おかげでサッカーが好きになっている。

 

やさしさ

ときどき、息子が優しいと感じるときがあって、それは親にとってはすごく嬉しい時間である。成績がいいとか、それとは別次元の喜びがある。

例えば、庭でお隣さんの子とフリスビーをしていたとき。その子は足を骨折して松葉杖であった。それでも息子とフリスビーを受けたり投げたりできて成り立っているようだ。ぼくはその様子をキッチンで料理をしていて、声が聞こえる。息子が投げたフリスビーがその子が取れないところに飛んでいって、その子が取りに行こうと動こうとしたのだろう、そのとき息子が「いいわ、オレがとりに行くから」と制して自らが動いていたとき。

「優しさは、優しくされた分だけ身につく。『優しくしなさい』といっても身につかない。」とは桜美林大学の山口先生の著書にあった金言。その子がそもそももった気性もあるだろうけど、親の責任も大きい。

シーズン開幕

息子のテニスのクラスが一個あがって遅いスロットの時間になったので、将棋のない週の土曜の朝は少し時間に余裕ができた。

快晴なので朝起きて布団を干す。そしてまだ日が低い今のうちに芝刈りをせねばならない。太陽と追いかけっこである。

今年本格的に芝刈り機を可動させるのは初めて。先に高いひょろっとしたペンペン草やシロツメクサタンポポを手で抜く。シロツメクサは今が満開で、とんでもない繁殖力を見せていてあちこちに勢力を拡大している。でも「高麗芝の根っこはシロツメクサよりも強いから、はじめの2、3年がんばってシロツメクサを抜いていれば、そのあとは大丈夫」と香山先生がおっしゃっていた。2年目の今年が勝負である。せっせと抜く。手を動かしてもくもくとやっているとだんだん頭がスッキリしてくる。先生とお会いすると「草むしりって、楽しいよね」という話題によくなる。手をかければかけるほど良くなっていくし、すぐに成果がみてとれて手応えがあるし、それぞれの草の生え方をみているとそれぞれの生存のための進化みたいなのがみてとれたり、虫のおウチを見つけたりで面白い。

学生のとき建築の図面を描いていたころ、建物の輪郭を書き終わったあと「影付け」といって陰影をつけていって立体的になるように装飾を施す工程があって、黙々とひたすら線を重ねていくあの作業が大好きだった。地道だけど、線を1本重ねるごとに、確実にその絵はよくなっていくのである。時間を忘れて夢中になれた。そしてそういう時間ほど、実は頭の動きもよくなるもので、机に向かってうんうん考えて勉強しているよりも脳は回転している気がする。自分の設計案について、自分はこういうことを表現したいのだなとか、考えがまとまってくる。

ちょうどいま赤紫色の大きなバラがツゲの下に生えているのだけど、その回りに雑草もバラを守る取り巻きのように生えている。バラはきれいなので残したいし、トゲがあるからそのエリアには手を入れにくい。バラのそばの雑草は芝生にポツンと生える雑草より生き延びやすいのである。だけどぼくは公務員によくいるのだけど、バラのような強い者のそばに位置してヘコヘコしながら自分の身を守ろうとするスタンスの人はあまり好きになれないので、そういう草はまっさきに、とっとと抜く。もっともその草にしてみたら、毛頭そんなつもりはなくてたまたま生えただけで、罪はない。だけど日々辟易としているぼくにはそう見えてしまうのである。

雑草をむしり終われば、いよいよ芝刈り機を回せるタイミングになった。これもまた楽しい時間で、ひたすら伸びた高麗芝が同じ高さに刈り取られてみるみるほどよい秩序が芝生の輪郭に現れてスッキリする。それぞれの芝の先端の点が、同じ高さになるから、そこに一つの面ができる。それが人の視界には秩序と認識されるのだろう。高めの芝刈り機は2年目も快調だ。こういう日常で身近なアイテムには節約せずにお金をかけるというのはいいものだ。

そうだと気づいて靴を脱いで裸足になってみる。実に気持ちがよい。芝生の感覚だけでなく、芝刈り機に溜まった草を捨てにいくときに丸い石を敷き詰めたガレージを横切るのだけど、その丸い石たちが健康器具のように足を押して痛い。でも健康になりそうだ。子どもたちに比べて、オトナになると裸足の機会がすくなくなるけどあれは損をしているのではなかろうか。大地と直につながった感じが心地よい。

次女は知らない間に屋根から庭に出ていたお隣のお家の友だちに話かけて遊びにいく話を取り付けて遊びに行って、隣のお家のお庭から顔を出す。足の逆剥けが気になったようで、小さな絆創膏を持ってこいというので息子にお願いする。

長女がピアノから帰ってきて、「パパ、裸足でやっとるん?」と嬉しそうだ。芝刈り機をやりたいというからやらせてみるけど、なかなか前に進まないし、ぼくも少し進めたいところがあるので「パパにやらせて」というと退屈したのか家に入っていった。

モンシロチョウがヒラヒラと飛んできた。きれいになった芝生に誘われたかのようで嬉しくなる。飛ぶ先をみるとシロツメクサに行きついた。

ご近所の小さな男の子を散歩する父子も通りがかって芝生を褒めてくれてご機嫌になって今日の作業は終了。洗面所で坊主頭に水をかける。頭も刈りたい衝動にかられる。昨日飲み忘れたコーヒーが冷えているので氷をいれてアイスコーヒーにしたら意外にいけた。息子をテニスにつれていく時間である。夏は芝生と頭をひたすら刈るのである。

最近の朝

先に起きた娘たちが、「パパ、いちごの花、咲いてるよ」と教えて起こしてくれたのが一ヶ月ほど前。ここ数日は小さなかわいいいちごの果実ができるようになった。早くとらないとはらぺこ青虫の絵本のように虫に食べられて穴が空いてしまうので、小さくてまだ赤くなりきってなくても採るようにした。一昨日は3個採れたから、子どもたちが1個ずつ仲良く食べることができた。今朝は長女がみつけて採ったのが息子が学校に行ったあとだったから、1個を長女と次女で半分に切って食べさせた。今日は歯科検診があるので、出る前に歯を磨いた次女は「帰ってきてからにする」というので、「帰ってきてからだと美味しくないから食べな。また歯はみがけばいいよ」と勧めると少し考えて「クチュクチュペーだけする」といって食べた。念のため口の中をみたらすこし歯に詰まっていたから歯ブラシでとってやる。

小さくても美味しいらしい。「無農薬のイチゴは貴重だね」というが「ムノヤクってなに?」と長女。

加えて、メダカにエサをすりつぶして与えるのもここ数日の長女の日課になった。今朝は隣の家の友だちも昨日約束していたみたいで、メダカの朝食を食べる様子を見に来ていた。