パパの背中は泣いておる

好きな時間の一つ。子どもたちとお風呂に入る時間。
長女に背中を洗ってもらうと、こんなに幸せなことがあってもいいものなのか、とさえ思うわけですな。子どもが親のために〇〇をしてくれる、というのは、こんなささいなことでも、こんなにうれしいのだな。小学校のとき母に、祖父に勧められて母の日に財布を買ってあげたことがある。時代遅れになってもボロボロになっても、何年もつかってた。わかっていれば、もっとしてあげるんだった。

さらに寝かしつけのとき、うつ伏せになって、背中を踏んでもらう。背骨を真ん中でまたいで、足の指先で指圧したり、ジャンプしたり。ほぐれて、意外に効く。前は長男の専売特許だった。1回10円。さらに背中がポキってなったら1回ずつ10円追加。多いときは1日60円くらい稼いで、月に800円くらいになってた。

その長男もここ数年で大きくなり、今は肋骨が折れそうなくらいなので、長女にバトンタッチしてみたら、最近は長女の重さがちょうどよくなってきている。しかも兄の姿をみているので、だいたいどうすればいいかわかってくれている。気がつけばパパの背中ばかりに付き合わせてしまってる。ハイハイ〜と厭わずやってくれる。枕を涙で濡らすわ父ちゃん。

何をしているわけではないけどあっという間

ブログが滞ってしまった。家事育児って、あっという間に時間が過ぎていくのですなぁ。毎日やることがいっぱいあるものなのですなぁ。掃除、洗濯、食器洗いに食事の準備、ゴミ捨て、買い物。「読んで」といわれた絵本読みにお風呂に入れに、寝かしつけ。あっという間に一日が過ぎてしまう。冬は日が短いし、太陽と追いかけっこしているような感覚。1つの作業は、1分で終わるようなことばかり。だけど、それが100個も200個もある。集中してポンポン片付けていっても、まだまだあるよ、とわんこそば状態。子どもにも無愛想になることもしばしば。夜に近づくにつれ、余裕がなくなり、その果てしなさにだんだんイライラしてくる。

たとえば、みんなのご飯がおわって、ようやく自分の分をキッチンでそそくさと食べているときに、空腹を満たした長女が『パパ〜、これ、読んで〜』とくる。無邪気。断られるなんで夢にも思ってないだろう。うれしい申し出のはず。でも、とっとと残飯と食器を片付けたくもあり、その余裕のなさと、空腹が勝ってしまう。そして何より、「ご飯くらい食べさせてくれ」的な自分のペースの時間がないことへのイライラで、、断ってしまうときがある。特に一人っ子はこれに対するストレス耐性がない気がする。

子どもとの時間がほしくてこの生活になったのに本末転倒じゃないか、とあとから冷静になって反省するのだけど、そのときはどうもカリカリしてしまうんだなぁ。寝かしつけが終わったら、張り詰めていた神経がプワ〜ってなって、ヘロヘロになってすぐ寝てしまう。あの徹夜が平気だった20代はどこへやら。情けない。

恥ずかしながらこれまで妻に任せっきりだったこれらのこと、感謝はしてたつもりだけど、実際やってみたら、その100個のうち、1つでもやってくれたら超助かる、というのが心からわかった。食洗機で洗い終わった食器を戸棚に戻す、シンクのネットを入れ替える、夕食が出来たとき、ご飯や味噌汁を家族分をよそって配膳してくれるとか。「たったそれだけ」だけど、やってくれたら「超ありがとう」ってなる。
そういえば、まだ妻に任せっきりのとき、「それらくらいやって」と言われていたけど、やらないことがあって、よく怒られた。そんなくらいで怒るなよと思っていたけど、今はわかるし、やればよかったと思う。こう書いたらいやらしいけど、やることと感謝の費用対効果がすごい。ちょっとやるだけで、ものすごいありがとうが得られる。ありがとうのお買い得セール。

いまは、当事者になったおかげ、自然と「やっておいたら楽だろな」のセンサーがみについた。例えば、朝は彼女のほうが早いときがある。正確に言うと、ぼくも起きるべきところなのだけど、寝坊を許してくれることがある。そのときに少しでも救済されるべく(だからむしろ自分のため)、夜のうちにキッチンをきれいにして、ご飯が炊けてあるようにタイマーをセットしておくようにしている。この手間、翌朝にまわしてやらずに子どもと一緒に寝れたらどんなに楽だろう。でも、これはできるだけやりたい。
もっとも妻のためにとかカッコいいことでは、もはやない気がしている。たいしたことでないし、自分のためが二人のためになればいいや、くらい。キッチンが片付いているとこの家を気持ちよく満喫できるし、日々の生活を自分自身で整えている感覚が心地よい。いまはだいたい家のどこに何があるかわかるし。

いままではこれらのことを面倒なことと決めつけて、やってもらえたら最高と思ってたのに。主夫的生活のおかげで、この価値転換ができたのはでかい。前は確かに楽ではあったけど、その分、妻にそのしわ寄せがいっていた。今はワリカンくらいにはなったかな、バランスはとれたし、ゴロゴロする姿を子どもに見せないし、家事をする/しないのもめ事のストレスもなくなった。

この同じサイクルで流れる傍からみたら実に平凡な日常生活を、自分が彩っているとまではいえないけど、ペースを整えているくらいまでにはなって、「自分のものだ」感が増した。以前はどちらかというと非日常に憧れをもっていたのかもしれない。そしてそれはモノやサービスといった外部から与えられる。だから、それを得るために日常をそっちのけにして働いた。いまは、その非日常を得る余裕は我が家にはない。だから、どちらがいいかは比べられない。そりゃ、ハワイに行けたら楽しいだろう。東京にいた頃のように、毎日のように飲みにいって、たくさんの面白い人たちと出会えたら刺激的だろう。
でも、Uターンしてそれまでのスタイルを捨ててみてわかったこと。子どもの存在のような、絶対的なものに身をゆだねると、欲や迷いが消える。自分よりも大事なものができることはおそろしい。自邸をのぞいて、ここ数年で自分のために何かを買った、というものはない。それでも、以前より満たされているかんじがある。愛すべきチビたちに囲まれて、ワーキャーと騒がしい毎日をかみしめながら、自分が整えている生活に愛着が生まれた。生活が内部から与えられるようになった。テキトウなぼくのことだから、いつまでこの価値観も続くかはわからない。子どもたちが大きくなり、親との距離が必要になったとき、またぼくは外を求めるような気もする。

ちなみに、我が家の寝床は少し変わっていて、小さなこどもでは届かない高さにある。階段もはしごもない。だから長女と次女は自分一人ではそこにたどり着けないし、逆に寝床から1人で出てこれない。なので、朝も夜も、ぼくがキッチンにいるとき、寝床にいく二人から、『パパ〜降ろして〜/のぼらせて〜』と求められる。手を拭き、階段を降り、寝床までいって抱っこして昇り降りさせる。忙しいときにわざわざそれをしに行くのは、実に手間だ。「はしごほしい」と妻から何度も言われている。でも、やがて二人も長男のように自分で昇り降りできるようになって、このかけ声はなくなる。面倒だけど、それまで、なるべくぼくがはしごになりたい。バリアフリーから程遠いこの家だからこそ生まれるコミュニケーション。彼女たちが大きくなって、帰ってきてそこで寝ることがあったら、もしかしたらそんな父の記憶が甦るかもしれないし。

親が目に見えてしてあげることは、どんどん減っていく。なくなったとき、あの頃はよかったと思い返すのだろう。それを肝に命じて、この3人とむきあって、思い出沢山つくろう。イライラするのはもったいない。でも、しちゃうけどね多分今夜も。

朝の緊張

今朝は妻が先に家をでて、ぼくが長女と次女を保育園に送る日。起きたら長男はすでに家を出ていた。

二人と朝ごはん。昨日の残りのキノコの卵とじ、ごはん、お味噌汁を分けて与える。ごはんに生卵かけて、と次女。おかわりしてモリモリたべている。
これだけだと物足りないかなと、「プチトマト食べる?」と聞くと、二人とも「食べる!」と元気に返事。

次女はプチトマト一口で食べれないというので、半分にしてやる。
長女が「わたしのマーク、保育園でトマトなんだよ」と嬉しそうにいう。だからトマト大好き!らしい。
それを聞いていた次女も、自分も「保育園のマーク、トマト」という。

長女が「いやあんたは、マークピヨピヨひよこでしょ、トマトじゃない」と主張。そのとおり。何一つ間違っていない。

でも次女は「トマト!」と意地になる。それから、「トマトじゃない!トマトはあたし!」「わたしもトマト!」の一歩も譲らない緊張したストロークが延々と。朝の食卓がどんどん静かになる。

コーヒを入れながら、こんなところに地雷あったのかよと少しトマトを出したことを後悔しつつ、父は経過を静かに見守り、間には入らないことにした。「長女が正しい、次女はひよこである。」と結論を出したり、仲裁にはいるのも、なんだかな。最近この手の二人の対立、多いな。たいてい、妹が何も考えずに姉の真似をしたくて便乗したら、姉からみたら看過できないツッコミどころがあるという。次女がママは「自分のママ」と主張して、長女が「ママはみんなのママだよ」といったり。

今朝は天気もいいから、二人と歩いていきたいので、早く食べろ〜とひたすら促しているが、話は平行線で全然食べない。結局、歩いていく時間には出発できず、車でいくことに。ぼくも残念なので機嫌がわるくなり、口調が強くなると、静かに食べるようになった。「もう行くぞ〜、コート着ろ〜、靴下履け〜」と口うるさくいうと、二人は急に団結しはじめてキャッキャと仲良くコート着せあったり。共通の敵ができると、対立はなくなるのは歴史の必然。

皿を下げようとしたら、次女の皿の上には半分に切ってやったトマトがそのまま。なんなんだよ。やりたい放題、自由やなぁ、あいつ。

次女たべるしゃべる

涙涙の断乳をへてから一ヶ月くらいからというもの、次女が急に成長してる。食欲がモリモリ、言葉もペラペラ。階段を下りて土間にあるミカン箱のところへいき、ミカンを取り出して皮を自分で食べている。一連を静かに遂行するので気づかない。あれ、次女どこいった、ってなったらたいていミカンを食べている。ミカン箱一週間でなくなる。朝もバナナむいて、もりもり食べる。チンパンジーにみえてくる。

 

朝は保育園にいくとき、上着のコートはお気に入りでないとダメと主張する。「これ、小さい、脱ぐ」といえる。

晩に一階で寝てて、こちらが二階で夕食の準備をしてたとき、そろそろ起きちゃうかなぁ、起きたら泣いて夕食準備できないなぁと思ってたら、これまた静かに気がつけば一人で階段上ってキッチンまできた。これまで起きて一人だったら必ず泣いてたのになぁ。ありえん。昨夜は寝かしつけて寝たと思った妻が風呂入りにいって、まだ寝てなかったらしく、リリースされたことに気づいてママーと泣いてたけど。ほくがいっても「ママがいいー(パパじゃない)」ときっちり主張。

 

散歩してて、マイペースなやっちゃな、と感じる。義父によると、義母の母、次女のひいおばあちゃんに似てるらしい。マイペースで穏やかだけど、頑固なとこ、らしい。

坊主頭に関する見解

節約もあって、ぼくはバリカン自前の坊主頭でして、さっぱりして楽だし、似合うかどうかは二の次で、とてもストレスフリーなわけです。この季節すこし寒いな、くらい。切りたいときに風呂場ですぐ切れるのもいい。

これは息子にもおすすめだなと、ぼくはポジティブ派なので、夏のある日に息子に髪をきるぞーって、一気に丸刈りにしました。

息子はへけけと笑い、頭をさすりさすり、きもちいいわーこの手触り、とやってました。でも妻としては全くお気に召さないようで、丸刈りだけはこれまで避けてきたのに、なんであんた勝手にやるのよと不満げ。「この子の顔、坊主にあわないでしょ」と。髪質変わる懸念もあるようす。

そんな顔あるのかな。でも義父やら義母には少年っぽくていいとまずまずなので気をとりなおす。

サッカースクールでもテニス教室でも、連れてくとコーチから、お、坊主!といわれてる。でもこの二つのスポーツ、坊主は似合わんなぁ。特にテニス。このときばっかりは失敗したかもとおもったり。

切って3ヶ月くらい。髪の長さも青々とした昭和の少年から、いまは普通になってきた。

息子に髪伸びてきたな、と風呂でいうと何かを察したのだろう、「もう坊主やだぞー」と前もっていってきた。

あら、そなのか。意外な言葉。この3ヶ月になにあったんだろ。冬だから寒いよね、というと「夏になってもやだ」らしい。なんでか理由を聞いてもわからないという。どこでも坊主といわれまくるのがいやになってきたのかな。好きな子からなんかいわたり?はまだ早いか。彼の意思を尊重し、ここは引き下がろう。

てなわけで、愛くるしい坊主バージョンの息子はやがて見納め。さらば一休さん

彼はマイノリティなのも臆せず制服は田舎の小学生には珍しい長ズボンを貫いている。坊主と長ズボン、わるくなかったんだけどな。そして坊主もむずかしいけど、それ以外のカットはもっとなんだよなぁ。

そして母にはもろもろ見えている、ものなのか。

 

ミカンアカン

スーパーでみかんが並ぶ季節。1袋500円くらいする。6個から10個入っている。何個入りを買ってきても、その日のうちになくなる。自分もさることながら、我が子たちも鳩がエサにむらがるように、我こそ先にみんなで袋に手を伸ばし、食べつくす。次女もむんずとつかみ、剥けといってくる。
これじゃ何個あっても足りないわ、箱買いじゃ、と大人買いをすることにした。そのほうが割安になるだろう。農協にいって、1箱買う。多分150個位入ってる。子どもにもほどよい小さいサイズ。3,500円。これならだいぶもつだろう。

という読みは浅はかだったようで、1週間もつかわからないのがこの3日間の現状。玄関脇の土間に置いているのだけど、帰ってきたらその箱から各自幾つか持って、むしゃむしゃと食べている。長男はミカンとドラゴンボール。最高やな、それ。さぞかし、幸せな時間だろう。

かくいうぼくも、とまらない。多分今日21時に帰宅してからかれこれ、15個位食べている。早く食べないとミカンは足が早い、というのを言い訳にしている。風呂上がりに5個。誰かに止めて欲しい。でもとまらない。中毒のような。

ラジオで日本のミカンは健康にいいといっていた。カロチンがなんとかで、病気になりにくいとか。この都合のいい情報も、拍車をかけている。

ミカンの箱の横には、義父のセカンドハウスの庭になった柿も山ほどある。旬なものはうまいもので、この柿もとても甘くておいしいが、ミカンほど手軽に消費されない。から、ミカン1個につき、柿1個食べる家庭内法律を臨時に決めたほうがいいかもしれないと迷っている。ぼくも、せめてミカン3個につき、柿1個にしてほしい。そしてこうして書いてる間にも食べたくなってくる。

1週間で3,500円って月で14,000円やんけ!床暖房も始まったし、怖いなぁ冬は。

しかも、明日カニ解禁だそうじゃないですか。

小2の頭ん中

小学校や学童の帰りに、車で長男を拾うときに、近所の同級生も乗せることがある。3人で後部座席にすわって、あぁだこぅだ話している。親はしゃべらない。話は面白くともなんともないので興味はないが、どうしても耳に入ってくる。

「なぁ、今日◯◯が、女子にいっとってんけど、『ハチって好き』?って聞いて、『きらい』って応えられたら、『へぇ〜数字の8って好きじゃないの?』っていっとって、めっちゃあいつ、頭いいっておもったわ」

「へぇ〜。」(一同感心)

「だって、『すき』って返ってきても、『えぇ〜じゃあ刺されても好きなんや、変なの〜』って答えればいいもんな」

「ほんとやなぁ〜。あいつめっちゃ頭いいな〜」

と、まぁ実にくだらない。後で長男に聞くと、女子とは基本的に話さないらしい。確かに小学校のときって、女子と話すの抵抗あったかも、というのをほんのり思い出す。中学でも、まだあったな。父ちゃんもシャイやし、わからなくもない。

 

別の日。また同じ友達2人が後部座席に乗った。

「なぁ、△△の、今日歌っとった替え歌さ、ピコ太郎のやつより、面白くない?」

「お〜、そうやな、めっちゃ面白いな」(一同同意)

これは気になる。今最も世界を席巻しているやつより面白い歌なんてあるのか。そいつ、なにもんだ。でも実際に聴いたらどうかはなんとなく想像がつく。

 

昨夜の夕食時。

その友達うち1人が歌っとったサザエさんの替え歌、めっちゃ怖いぞと教えてくれた。「戦争行くぞと街まで出かけたら、鉄砲忘れて、こわい〜なサザエさん。戦車が狙ってる〜。」

 

昨日寝る前。

風呂から上がって寝る支度ができた長男、料理に片付けにヘトヘトになったぼくのところに寄ってきて、ちょっと見ててと、

「今から、ジャンプするから、そのジャンプしとる間に、『あ』っていうから、見てて」

といってくる。真剣な顔で跳ねて、その間に大きな口を空けて確かに「あ」と言っている。何度も繰り返す。

「な、空中で『あ』、言えとったやろ」

「お・・、おぅ」

認めたらご機嫌で階段を降りて、寝床にいった。なんなんだ一体。父ちゃん背伸びしてもそんな遊び開発できんわ。

今夜も力尽きるまでドラゴンボールを読むらしい。

そんな小2の頭ん中。自由にゆくがよい。