長女が寝る前に1冊、本棚から本を取り出して「読んで」とお願いされるのが習慣になった。シンデレラ、おしゃべりなたまごやき、かいぞくゴックン。前の2冊は、ぼくがかつて小さい頃に読んでいた本だ。表紙の裏に、ぼくの名前と日付が書いてある。1986年とある。ぼくが6歳のときの本を、いま6歳の長女に読んでいる。当時は母が読んでくれていたのだろう。それを今ぼくが、長女に読んでいる。
「おばあちゃん、孫が読んでくれて、きっと喜んでるよ」
そうぼくが感慨深く言ったのを気に留めてか、それ以来、ぼくの昔の本を選ぶようになった。
昨日は「マッチ売りの少女」と「みにくいあひるの子」が一冊になったもの。めくると古い本の匂いがするから、これもぼくの小さなころの本だ。はっきりとした記憶はないけど、「みにくいあひるの子」というタイトルを聞くと、グッとくる何かがある。当時、きっと印象的だったんだろう。
実は、この1冊になる前に一悶着あって、一昨日、長女と次女で読む本を揉めた。次女は「かいぞくゴックン」を読んでほしかったのだけど、長女が「それは明日ね。今日は『ピノキオ』ね。面白いよ」と押し切った。だから今日は「かいぞくゴックン」を読む日だった。その約束を次女はちゃんと覚えている。だけど、その本は長女はすでに読んでもらっているから、当日になって「それはママに読んでもらって」と次女にお願いした。次女は「パパがいい」と最初いっていたが、やがてしぶしぶ納得して、ママがお風呂から上がってママと次女の寝床に連れていくのをダイニングで待つことになった。ぼくと長女は、別のはなれの寝床に先に行く。長女としては無事にマッチ売りの少女を読んでもらえることになった。
本を広げて、気がついた。どうせ次女も待っているだけなので、一緒に来たらいい。おもやに戻って、2階にいるダイニングの次女に声をかける。
「ママを待ってる間、絵本をはなれで読むけど、聞く?」
「行く!待ってて」と元気な声が返ってくる。
というわけで、昨夜も、長女と次女の二人にむけて読み聞かせる。
読み聞かせながら、改めてぼくも味わうと、なんとも悲しい話だな。孤児といじめられっ子。この2話セットが1冊になっているのは重い。お得感がない。
マッチ売りの少女を先に読み終えたところで、リアクションがいつもと違う二人に「どうだった」と聞くと、言葉が返ってこない。いつもは「面白かった」とかあるのに。
「最後死ぬとき、幸せそうだった」と長女。これはハッピーエンドといっていいのか迷う。
まだ妻はお風呂から出てきてないみたいだから、「みにくいあひるの子」を読み始める。読んでいる途中で、はなれに息子がやってくる。
「かあちゃん、お風呂から上がった?」
「もうすぐやとおもうよ」
それを聞いて、次女は待っていたのだろう、お話はまだ途中だけど、そそくさと立つ。
「誰かいっしょに行って。一人じゃいけないから」とおもやに連れていけとお願いする。
息子にお願いしたら「えぇ〜」といいながら、しぶしぶおもやの玄関まで同行してあげる。
長女に続きを読んであげる。隣にきた息子も横目で聞いている。
みんなからいじめられて、死にたくなるまで追い詰められる。子どもはどう思うのだろう。寸前のところで自分は白鳥だったと気づき、どうもハッピーエンド、のようだ。
でも、リアクションは芳しくない。ぼくもそうだ。最後以外、大半がいじめの話だから、読んでて怒りがこみあげてくる。
「なんで、ママからもいじめられなきゃいけないの?」と長女。自分の親さえも「かわいくない」だとか「どっか遠くにいって」と足蹴にしているのが納得できないようだ。
そして、「あひるのママから、なんで白鳥がうまれるの?」というまっとうな疑問。
「卵が、間違ってまざって、そのまま温めちゃったのかな」とぼく。
「じゃ、本当のママは、どこにいるの」
たしかに。
「本当のママ、まだ探しているのかな」
「本当のママに、会えたらいいね」
「最後にでてきた大人の白鳥、そうなんじゃない」と適当なことをぼくがいうと、息子が「そうとは限らんよ」と横やりを入れてくる。
もんもんとした名作の2話だった。たまにはこういう話があってもいい。
電気を消して、息子にいつものように背中を踏んでもらって、長女を腕枕して就寝。
長女が保育園でちょっかいを出してくる男の子の話。半分は困惑、半分は照れくさそう。「デートしたい」と言われて、「『もうわかったから、何回もいわないで』っていったの」とのこと。最近その手の話が盛り上がっているそうだ。
今夜は何を読むのかな。絵本を閉じたとき、一日の親のしごとがこれにて終了!ってかんじで、こちらとしてもやりがいを感じて楽しい。そういえば『星に願いを』の日本語の歌を聴きたいといっていたな。CDを探して今日のお迎えの車で聴かせてあげよう。