読書めも〜『怠け数学者の記』

<怠け数学者の記/小平邦彦岩波書店/1986>

・物理的実在のほうが数学的なものよりもはっきりした実在であるという考え方が、すでにおかしいと思うんです。なにか数学的実在というものが根本にあって、そのうえにあらゆる自然現象が乗っかっているのだろうと考えているんですけれども。そういうものを見る感覚というのがあると思うんです。普通は五感しかないといっているけれども。

・論理だけではどっちの方向に向かって論理を進めるかということは出てこないわけでしょう。

・数学的に有意味な問題を発見するということは、ちょうどコロンブスアメリカを発見したときに、一種の「実在」の予感により、その直感に方向づけられて旅立ったように、数学者も「数覚」に導かれて新しい研究を開拓していくということですね(伊東俊太郎

・最近ですと、ブラック・ホールというのがありますね。あれはアインシュタインの一般相対論の方程式の数学的な解に現れるだけで、まさか本当のこととは思わなかったのですが、どうもあるらしいというんですね。(中略)どうも数学的現象が全部の背後にあるような気がする。
・われわれが、数学で新しい定理を見つけますね。そういう場合、必ず「発見した」と考えるわけです。「発明した」とは考えない。(中略)前からあったものを見つけた、という感じがするんですね。

・人類が自慢する理性はどこへいってしまったのであろうか?理性に片鱗でもあれば当然世界の大国は首脳会談でも開いて核兵器を全廃すべきであろうが、現状ではこれは非現実的で不可能である。(中略)ただ子供たちが21世紀の世界の政治機構を、もう少し理性的なものに改めるように努力することを望みたいのである。

・理性的動物であるならば当然理性的判断に基づいて決断を下すはずですが、直接の利害関係が絡んでくるとまず本能の命ずるところに従って決断をしてそれを正当化するための理由を考えだすために理性を使う傾きがあります。この本能の主要なものは人を支配したい、つまりボスになりたい本能、それから領土欲ではないかと思います。

・人間の理性というのは甚だ頼りないもので、本能を押さえることが出来ない、それどころか理性の方が本能に奉仕する召使いである。結局人類は1万年以上昔の環境に適応した生物であって、現代の科学・技術的環境に適応し切れないのではないかと思われます。

・皮肉なことに、その人類がもっとも上手なのが科学・技術でありまして、もっとも下手なのは、多分、政治であろうと思います。利害関係が対立する人間の集団の本能をうまく操らなければならない政治が難しいのは当然でありますが、人類が科学・技術に優れているのは何故か、技術の方が石器時代から必要であった道具をつくる技術が進歩したと考えることができますが、純粋な科学、特に素粒子、抽象的な現代数学等を理解し研究1万年前の昔には全く無用であったはずであります。人間がこの無用な能力を具えているのは何故か、進化論では説明し難いように思われますが、聞くところによりますと、或る程度高等な動物は生きていくためには全く不要な過剰な能力を具えているものだそうであります。生きるために不要な過剰な能力というのは、例えば鸚鵡の人の声を真似る能力のようなもののことと思われます。人間の純粋科学を理解し研究する能力もこのような過剰能力と考えれば、1万年前の昔に全く無用であった能力を具えていても不思議ではないことになります。生きていくために必要な能力は自然淘汰によって統制された筈ですから余り個人差はない、しかし生きるために不要な過剰能力には自然淘汰は働きませんから過剰な能力は個人差が大きい、特にもっとも不要で過剰な抽象数学を理解する能力にはもっとも個人差が大きいはずであります。

・例えば音楽について見てみますと、現在でももっとも頻繁に演奏されるのはバッハ、モツアルト、ベートーベンの作品でありまして、レコードのカタログを見てもこの3人の作品のレコードが圧倒的に多い、明らかに作曲においては累積が有効でないことを示しています。(中略)このように累積が有効に働かないものには進歩という概念は適用されません。作曲が時代と共に進化すると考えたのが作曲が行き詰まった原因であるという説さえあります。従って人類の進歩は累積の効果が最も著しく人類が最も得意とする科学・技術の進歩以外には考えられません。

・南米に住んでいるナマケモノ(sloth)は、逆に、徹底的に怠ける、木にぶら下がったままじっとして動かないので体に苔が生えて植物と区別がつかなくなる、そういう風にして滅亡を免れてきたそうであります。

・人類が科学・技術のために滅亡するとしてもそれは科学・技術が悪いのではない、科学・技術を悪用する人間の本能の仕業であります。

・新しい技術がまた新しい問題を生じるでしょうが、それを解決するには更に新しい技術を開発する、こういう無限のプロセスを追求して行く以外に道はないと思うのであります。科学・技術が生ずる難問を回避するために自然に帰れという識者もおられますが、これは、例えば象にむかって「お前は大きくなりすぎて滅亡寸前である。もう一度小さくなってナマケモノを見習ったらどうだ」と言うような不可能なことではないでしょうか。
 科学・技術による人類の滅亡を防止するためには、何とかして人間の本能的な面を抑え理性的な面を強化して行くより他方法はないと思います。

・数学を習得するには、毎日長い時間をかけて繰り返し練習することが必要であると思う。

・証明を理解するというのは、論証に誤りがないことを確かめるのではなく、自分でもう一度思考実験をやり直して見るということであろう。理解することとはすなわち自ら体験することであると言えよう。

・ある一つの分野が進歩していって、その進歩の最先端から新しい分野が生まれるのではなくて、その分野の原始的(primitive)な所から新しい分野が生まれる。

ポアンカレが旅行中馬車に乗ろうとした瞬間にファクス関数に関する重要な発見をした話は有名である。(中略)発見が「無意識」すなわち右半球の働きであるとすれば、したがって平面幾何は創造力を養うためにも最適な教材であることになる。

・5年からはじめた方が能率よく教えられる教科を無理して1年から教えるために基礎教科の教育がおそろかになる、ということがあっては、子どもに対して申し訳ないと思います。
初等・中等教育全般についても事情は同様で、生徒の学力・独創力を養うには、いろいろな教科が競って早くから多くの事柄を教える、という行き方を逆にして、まず基礎的な教科を十分時間を掛けて徹底的に教え、他の教科は適齢に達してからゆっくり教える、という行き方に改めるべきであると思います。

・子供のときに習得しておかなければ大人になってからではどうしても覚えられないこと、例えば読み書き。(中略)国語と算数が小学校における基礎教科といわれる所以である。

・現在小学校では1年から社会を教えているが、仮に昔のように5年になって国語の実力が十分ついてから社会を教えることにしたとすれば、1年から教えるよりもずっと能率よく短い時間で密度の濃い内容を教えることができる。現在の1年の社会の内容を教えるには2週間もあれば十分であろう。理科についても事情は同様である。

・子供の生まれつきもっている能力は千差万別、端倪すべからずものがある。子供の個性を伸ばし独創力を養うには能力に差があるという事実を率直に認めて、それに対応しうる柔軟な教育が必要である。(中略)能力差を認めない方が不公平である。例えばボクシングではヘビー級とライト級に分けて別々に試合をしている。

・大学生の学力の低下のもう一つの原因はこのように大学入試の影響で受験勉強が受験技術の練習に堕してしまったことにあると思う。

・「子供は小型の大人である」すなわち「子供の能力は大人の能力を一様に縮小したものである」と考えてしまう。(中略)子供が小型の大人でないことは子供を素直に観察すれば直ぐにわかる。たとえば、子供を連れてアメリカに移住すると、5ー6歳の子供は1年間で完璧な英語をしゃべるようになるが、大人は10年経ってもなかなかあうまくしゃべるようにならない。

・子供は小型の大人とは異なる別な生物である。

・「急ぐ」教育が昔のゆっくりした教育よりも本当に優れているならば、われわれも「小学校の1年生のとき社会を習わないで残念であった」とか「中学生のとき統計を習わなかったので困った」とか思う筈であるが、そうは思わないし、そう思ったという話を聞いたこともない。

・子供は頭が柔軟であるから、こういうパターンを見て問題を解く受験技術を教え込めば上掲のような入試問題を解けるようになるが、それは猿に芸を仕込むようなもので、それで自分でものを考える力を養ったことになるかどうか、疑問であると思う。

・大学生の学力が年々低下している所を見ると、小学生は自分で考えて入試問題を解いているのではなく、パターンを見て猿真似で解いているのであろう。

・教育の「急ぐ」傾向がエスカレートすればする程生徒のパターンを見て問題を解く傾向がエスカレートし、自分でものを考える力は失われていくであろう。生徒の自分でものを考える力を養うには何とかして「急ぐ」方向を逆転して、ゆっくりした教育に戻さなければならないと思う。

・生物は廔々一定の方向に進化し過ぎて滅亡した。たとえばオオツノジカ(Irish elk)は角が大きくなりすぎて滅亡したという。大きな角は仲間の雄同士の間の儀式化された闘争に際して相手を威圧するのに有効なので、角が大きい雄ほど多くの子孫を残し、益々角が大きくなった。ヨーロッパからアイルランドに移住したオオツノジカは1万数千年前亜間氷期の木の少ない開けた草原で繁栄したが、つぎの氷期が終わり大森林が展開すると大きな角が邪魔になって絶滅したものと思われる(S.J.Gould:Ever Since Darwin,1977,浦本昌樹・寺田鴻訳『ダーウィン以来』、早川書房、昭和59年、第9章参照)。つまり大きな角は短期的には仲間同士の競争に有利であったが、長期的には環境の変化に適応するのに不利で、絶滅の原因となったと言う訳である。
 「急ぐ」教育が短期的には入試に有利であるが、長期的には自分でものを考える力の低下を招き日本の文明が衰退する、というようなことにならないことを望むのみである。

・進歩発展するものの典型的なものは生物であるが、生物の「個体発生は系統の進化を繰返す」ということが有る。同様に、数学の教育も数学の歴史的発展の順序に従って行われるべきであろう。(中略)むしろ歴史的に早く現れた概念ほど子供にとってわかり易いのであろう。

・歴史的発展の順序から考えても、ユークリッド幾何はもっとも初等的な数学であって、子供にとってももっともわかり易い数学である。また、18世紀およびそれ以前においては、ユークリッド幾何がただ一つの公理系に構成された理論体系であった。だから私は子供に公理的構成の考え方を教える材料はユークリッド幾何に限ると思うのである。

・私が子供たった頃の数学教育は自然に歴史的発展の順序に従っていたので、集合論等の抽象的な数学は何の抵抗もなく理解できたのであった。それを歴史的発展の順序を無視して先に抽象的な数学を教えるのは子供にとっても先生にとっても時間と労力の浪費であると思う。

初等教育の第一義は、何よりもまず大人の真似をすることを教えることになると思う。例えば、母親が幼児に言葉を教えるとき、同じことを何度でも繰り返して、大人と同じ発音で、同じようにしゃべることを教えるのであって、ここで幼児が創意を発揮して、自分で勝手な言葉を発明したのでははなはだ困る。このような理屈抜きの機械的な訓練が、初等教育の最も重要な部分を占めているのではないだろうか?

・音楽にせよ、絵画にせよ、すべて技術といわれるものを修得するには機械的訓練が不可欠である。


・私が見る所では、数学は高度に感覚的技術的な学問であって、数学を修得するには技術的な訓練が不可欠である。(中略)数学における技術で基本的なのは計算の技術であって、その基礎となるのが小学校の算数で学ぶ数の計算である。

・小学校の算数で最も重要なのはこの計算の技術の訓練である。

・計算の練習を通して、いつの間にか自然に数学的な考え方を学ぶのである。

・電卓でわけなくできるから数の計算を練習させなくてもよかろう、という浅はかな考えはもっての外である。(中略)電卓の使用法は大人になってからも直ぐに覚えられるが、数の計算は子供のときに練習しておかなければ駄目である。

・さらにまた数の計算に習熟していなければ、電卓の設計はできないことに留意すべきである。現在電卓がどんどん改良されているのは、数の計算に習熟した人が知恵をしぼっているからであろう。日本中の小学校に電卓を導入した結果、数の計算に習熟した人が一人もいなくなった未来の日本を想像してみよう。

・数学の初等教育の目的は数学のいろいろな分野を断片的な知識を詰め込むことではないく、数学的思考力、数学的感性を養うことにある。このためには範囲を数学の最も基本的な分野に限って、それを徹底的に教えるべきである。小学校では数の計算を、小学校では代数と幾何を、高校では、代数、いきかと微積分の初歩を、自由自在に使いこなせるようになるまで徹底的に教えることができれば、初等教育としては大成功である。確率、統計の応用的分野は必要なときに勉強すれば、大人になってかられでも覚えられるものであって、そのときは生半可な入門的知識よりも基本的分野の学習で養った強靭な思考力、鋭い感性の方がはるかに役に立つのである。小学生に確率の片鱗を教える等、以ての外である。

・進歩しているのは数学の最先端であって、数学の基本は少しも変わっていない。

・どうしても子供のときに習得しておかなければならない基本的な分野、大人になってからでも覚えられる応用的な分野、数学者以外には不要な分野を、ごちゃまぜにして小学校から教えている日本の数学教育の奇怪な現状はただもう不可解という他ない。