人間ドックにて

人間ドックのとき。はじめて鼻から胃カメラ入れた。たくさんの人が動いてくれた。ぼくはうつ伏せになっているだけで、バタバタと鼻に麻酔を打ってくれたり、カメラを入れる準備をしてくれたり、挿入するときは身体を抑えてくれたり。人が自分のために動いてくれることのありがたみを実感する。

だけど、鼻を開けるために10分くらいホースの先をつっこんで待機しているとき。天井をみながらぼーっとしていると、そうか死ぬときもこうして一人なんだなと妙にリアルに想像することができた。周りはバタバタしている。だけど自分は一人、世間と切り離され、そしてそのままこの世を去る。

一人でこの世を去るのだから、世の中の動きの中で、ほんとうに自分が追いかけなきゃいけないことなど、きっとほんの少しなのだ。目に見える範囲、そしてそれらと直接関わっている背後、そのくらいまでが自分の社会におけるプリミティブなテリトリーだ。

たいていは知りたくもないものに野次馬的に興味をもたされ、知った気になりながら時間をムダに過ごしている。ベッドの上で反省した。自分のことを知らない人はもちろん、自分が特段仲良くもない人のニュースをみて、あーだこーだ野次馬的にいうのは人生の時間の浪費に思えた。それができるのは、ぜいたくなことだということもできるのかもしれないけど。ぼくはやはり、限られた時間は直接的な関係のために捧げたいと思う。もちろん本も読みたい、映画も観たい、旅もしたい。見知らぬ他者のことを知って、広い世界をみたい。それらの行為も、自分と直接関係づけて初めて意味がある。傍観してるだけでは何も得られない。実際に自分で作るときに活かしたり、他者の苦労や気持ちをよくわかるようになったり。身近な間柄での日常が楽しくなくことに資するためにやるんだ。母は高校野球の選手が校歌を泣きながら歌ってるシーンをみてるだけで泣いていた。試合はひとつもみてないし、その高校の名前もしらない。でもその一瞬で気持ちが分かっていた。当時は不思議だったけど、今はわかる。選手のピュアな気持ちの尊さを自分で体験的にわかっていて、そしてその瞬間がいかにかけがえのないものであることを知っているからだ。

直接的な端的にいえば、「ありがとう」を直接言いあえる範囲を大事にするということ。いつ死ぬかわからないのだから。来月再検査がある。命について考える貴重な胃カメラであった。

「さよならだけが人生だ」という井伏鱒二の名言もあるが、あれはきっと、「ありがとう」の意味だ。終わりがあるから、感謝がある。