表現会

次女の表現会。我が家にとっては最後。歌は『にじいろ』と、合奏は『香水』、劇は『眠り姫』。次女は合奏では鍵盤ハーモニカ。劇はお妃様。

座席は固定で、子どもたちのくじ引きによる指定。感染防止のために席は離され、公演があったら一度部屋をでて先生たちが消毒。保護者は私語禁止。誘導によるスムーズな移動。対策を徹底してくれたからこそ、保護者が2名で参加できる運営になっている。案内表示、職員の配置など事前にちゃんと準備されて緻密に計算されているのが分かる。ご苦労かけている。感謝である。熱が出ることなく、親も子も参加できた。それだけでもう十分だ。息子と長女は家でお留守番。

ぼくの席は後方で、いつになく遠くから次女の姿をカメラ越しにのぞく。彼女は5年間、この保育園を満喫した。そして、この保育園しか通ったことがない。いろんな記憶が蘇ってくる。そして、心から羨ましい。

朝、でかけていくときに「大人がたくさんいて緊張するかもしれないけど、思いっきり大きな声出せばいいよ」と励ます。

 

園長先生が冒頭の挨拶で「手拍子や拍手をお願いします」とおっしゃっている。ミュージシャンとしてライブをやっているからこそのお願いだ。でも、カメラ撮影もせねばならず、もどかしい。それぞれが、我が子を撮る。子の数だけカメラが必要なのだ。

歌も合奏も、入場退場のときは表情がゆるむが、あとは真剣な顔つきだった。真面目さが伝わってくる。途中、何度かこっちを向いた気がする。後で訊いたら「パパ、みえてたよ」とのこと。

劇ではちゃんとお妃らしい衣装に身をまとって、冒頭のシーンが主な出演で、主人公のお姫様を産む。

「えーなんですってー、赤ちゃんが生まれるですって!」と身振りを交えながら彼女らしい高い大きな声が出ている。演じることが楽しそうだ。

舞台は大きなお城のセットがダンボールで作られ、小道具も随所に登場する。照明やBGMも適宜差し込まれている。

「3年間の集大成をみせますから」と昨日、リュウ先生がおっしゃっていた。3年連続の年長さんの担任。3年前は長女の担任だった。息子も年長のとき、面倒をみてくれている。我が家の子3人をしっかり面倒みてくれた先生である。子どもたちの晴れ舞台をしっかりつくろうという、言葉どおりの気合を感じる。そういえば「ぼくは運動会は得意なのですが、表現会が苦手で」と2年前は言っていたな。あれはもう過去のことだ。

劇が終わったら役者紹介とカーテンコールがあって、前に並んでリュウ先生が役名を呼ぶと自分の名前をいってお辞儀をする。ここでもちゃんと大きな声が出ていた。最後に観客席の真ん中の通路まできて一週をしてみんなに手を振っている。保護者がみんなシャッターを押している。拍手もしたい。こういうとき、手が4本がほしくなる。

 

「目、濡れた?」と尋ねると、最後の挨拶のときに「濡れた」そうだ。もう二度とはないかけがえのない機会。「有り難い」とはよくいったものだ。子どもも感じるのだろう。感謝の気持ちがこみ上げてくる。

夕食は次女のリクエストでビザを食べにいく。「表現会のご褒美」で、今日食べにいきたいものを食べに行こうといったせいか、今日はなんでもリクエストが通ると思ったのだろう、いつもは頼まないシュースやデザートをリクエストする。ぼくが渋って考えていると、「表現会だから」と付け加えてニヤッと笑う。結局、長女も息子の分もジュースを頼み、デザートも長女もむくれそうなので2つ頼む。息子は「お腹がいっぱいだから」とデザートは頼まなかった。親に気を使ったのかもしれない。長女も息子もちゃんとお留守番をしててくれたから、十分貢献している。息子はワンピースとポケモンのゲーム、長女は『グレッグのダメ日記』で時間をつぶしていたそうだ。長女は帰ったらコタツで寝ていた。

 

ピザやパスタを食べながら、保育園の先生のがんばりを称える。

「いいものにするために、がんばっていろいろ作って、すごいね。『このくらいでいいや』って手を抜くこともできるのに、しないでいろいろ作ってたね。だれからやれと言われたわけでもなく、やったからといってお金がもらえるわけでもない。でも子どもが喜び、親が喜ぶからやってくれる。コロナ対策だってそう。思いがあるってすばらしいね。」

しかも、大道具はこの日が終わると基本的には処分されてしまう。これがそこら中の保育園で繰り返されているのか。

「父ちゃんの職場の役所だと、新しいことは何かしら理由をつけてやらないようにすることばっかり。社会人としてダメだと思うわ。公務員にはなっちゃいかん」と自戒を込めていうと、息子がせせら笑いながら、「でも警察官は?」とつっこんでくる。公務員全員ではないといいたいらしい。

「たしかに。警察官、救急隊、消防士、自衛官とか、現場で人を助ける公務員はすばらしいね。机に向かっているだけの公務員が基本的にダメだ」と訂正。もちろん事務屋もそれなりに使命とやりがいはあるし必要とされているとは思う。父ちゃんも従事するかぎり、ちゃんと一生懸命やる。とはいえ、机に向かう公務員の給料は半分にして、保育士の給料を倍にしたほうが世のためだ。

 

結局、どんな仕事であれ、人からみたら面倒くさいこと、「よくやるな」と思われること、それを手を抜かず、一生懸命やるのがプロなのだ。そんな働き方ができる子にならないと、社会人として充実した生活はできない。保育園の先生方から、しみじみ教わる。しかもそれを「どうだ」とこれみよがしにしない。自然体で、さも当然のようにやりきる。さらに敬意が湧く。

ぼくのカメラは遠かった。それでもピントをあわせ続けながら頑張って撮影した。それはそれでよかった。近くで撮影したパパ・ママ友が写真や動画を共有してくれた。たまたまその家の子の隣に次女がいて、一緒に撮ってくれちた。ありがたい。基本的に、ぼくは次女しか撮らないが、妻もパパ・ママ友も全体を撮ったり、他の子を入れたり余裕がある。

 

ものごとには終わりがくる。終わりがあるから、それを貴いと感じるのかもしれない。そしてその時間が終わるとき、自然と涙が出る。いや、「目が濡れる」。生きることも、基本的には同じだ。死があるから、生がすばらしく思える。

この5年間は、つくづく、子どもたち、そしてそれに関連する大人たちから与えてもらったお金では買うことのない、貴重な瞬間の連続だった。ただただ、ありがとうという気持ち。

残すはいよいよ卒園式のみになった。残りの期間、次女には自然体験を存分に満喫してほしい。