ふるさと

一人で厄払いと墓参り。育った田舎街を車で走る。いつも菊花と線香を買う小さなショッピングモールが閉店していた。大きなどこにでもあるチェーン系のドラックストアになると張り紙がしてある。

このモールはぼくが小学校のときになり者入りでできた。この田舎にあの美味しい都会のミスタードーナツが入ったのが衝撃で、その頃は話題になって大盛況だった。

いつしかミスタードーナツは撤退し、花屋も人気のないUFOキャッチャーがならんだゲームコーナーになり、スーパーにも活気がなくなっていた。毎日来て長時間滞在していると思しき老人が、なんともなしに通路にある椅子に座っている。何年も在庫が変わっていないであろう昔ながらの服屋も人影がない。いつつぶれてもおかしくないかんじだった。ついにその日が来てしまった。近くにチェーン店の大きなスーパーも進出し、そちらに客の大半を取られたのだろう。品揃えも価格も勝てるわけがない。ぼくが住んでいてもそっちにいくが、やはり少しさみしい。近くの本屋はまだ健在で駐車場は満車だった。

 

ぼくの育った家はもう他の人に売られた。そばまで行くことはしたくない。近くの当時の通学路をなぞるように車を走らせる。誕生日やクリスマスの思い出がつまった青い瓦屋根のおもちゃ屋はもう別の店になっていた。子どもはみんな大人になったのだ。角の酒屋も美容室に改装されている。毎週通っていた習字教室はもうないのだろうか。あちこち老人ホームが増える一方、新しい家もチラホラできていてホッとする。老衰した祖父が入院していた病院。その前のカフェで叔母とぼくで気まずい打ち合わせをした。

 

よく母に連れられていった婦人会館はボロボロになっているが健在だ。地区のイベントはここの小さなホールでよく行われた。ここで開かれたなんかの講演会で母は登壇して、テレビのローカル番組に出ていた。確かぼくの通っていた保育園の園長先生と一緒に。いつになく厚化粧で、緊張していた。それを祖父母の家で観た。たぶん、働く女性として云々という話。一人で塾を経営して、当時はより目立つキャリアウーマンだったのだろう。

 

記憶のとおりの家々もたくさん残っていて、懐かしさと一緒に思い出が蘇る。どこにどの友人があったか覚えているものだ。犬のマリリンを散歩したこと、父や母のこと。結局、夫婦喧嘩している記憶が大半を占めてしまう。孤独で、心を閉じ、反抗ばかりしていた思春期。結局、ぼくはいまだにずっと反抗期から抜け出していない気がする。現実を現実として受け止めない。なるべく夢うつつでいつづけようという精神構造になってしまった。たぶん、つらい現実から逃避しようとする防衛本能が先に来るせいだろう。すぐ喘息が発作して、酸欠になった。

 

毎日母がぼくを車に乗せて通った枝垂れ桜の坂道。桜の幹が随分太くなっている。時間に追われていた母は、飛ばしていた。高校のときのある日、心無い言葉を母にいって、激昂した母はさらに猛スピードでその坂を下った。時速100km以上は出ていた。グシャグシャに潰れる事故になって、死んでもいいという感じだった。怖くなって謝りながらブレーキを踏んでとお願いをした。夫婦喧嘩のあと、二人で家を出て、「一緒に自殺しよう」と、見知らぬ山中に連れていかれた。死に方が解からず、やっぱりやめようと帰ったこともある。道中の雑木林をみていると、後部座席から運転席に座る母の姿と、つらい思い出ばかりが蘇ってくる。

 

坂を下るとぼくは祖父母の家に預けられ、母は塾にいく。塾が終わる21時過ぎに迎えに来る。決まって車の前輪が玄関先の側溝の同じ鉄板の上に乗る。その「ガシャン」という音が合図であった。それから家に戻る。父が今日は機嫌がいいかどうか。それが二人とも気がかりで、気にすること自体が毎日憂鬱だった。祖父母の家に泊まりたかった。

 

食事をした父は「お茶」とだけ口にしてお茶を持ってこさせ、テレビを見た。「『お茶ください』でしょ」とぼくだけに聞こえる小さな声で母は文句をいっていた。それを当たり前だと思わせたくなかったのだろう。

テレビを見た後、父は2階の自分の部屋に行く。母の言葉で何か気に食わないことがあったら、2階の父の部屋の和室の引き戸が何度もギギっと空いて、階段を駆け下り、台所の母にそのことを糾弾し、いたぶる。母が泣く。父も当時勤め先の上司から執拗ないやがらせ、今で言うパワハラを受けていたと母がいつかいっていたっけ。そのストレスもあったのだろう。そのギギっという引き戸が聞こえるたびに、部屋で一人胸が潰れそうになった。ぼくが耐えきれなくなって出ていくと、母が包丁を持って父に向けて泣きながら立っていることもあった。「刺してみろ」と父が挑発していた。膝に乗ってくるマリリンの存在だけが救いだった。同じ家に住んでいながら、家族三人、バラバラであった。でも、両親は自営業でちゃんと、それはそれはまじめに働き、社会で責任を全うしていたし、ぼくを経済的には不自由なく育ててくれた。今思うと親から子への愛は、確実にあった。ぼくが目を背けていただけで。

 

この街がわるいわけじゃない。だけど、この街に帰りたい気持ちには全くならない。そのとき抱いた感情というのは、価値に先立ってイメージを支配して、いやな感情は拒絶を引き起こす。家庭だけじゃなく、あの頃の自分のことも、きっと嫌いなのだ。そしていまだに好きになれない。

 

かといって、この道はやはりこうやってブラブラと走りたくなる。負の感情をわざわざ呼び起こすこともなかろうと思いつつ、当時の友だちとのいい思い出もあるし、街を歩いて脳の奥に沈んでいる記憶が湧いてくることで、もう会うことのできない祖父母に母、マリリンが近くにいるように感じれるから。そして、母のことを、親になった今、再解釈して、ちゃんと感謝しなおせるから。母にもう一度会えたら、ちゃんというんだ。

 

お墓に行くと、雪がまだ40センチほど積もっていた。仕方なくスニーカーをズボズボと雪中に埋まらせながらたどり着く。雨も降っている。それでも不思議とロウソクはちゃんと火がつき、線香も焚くことができた。祖父母がそばにいる気がした。いつもより長く手を合わせた。

 

祖父母の家では毎日何もせず、ただコタツで横になって、ぼく好みにつくってくれたご飯、フクラギの刺身を食べて、一緒にテレビをみたり、漫画を読んだり、寝たりするだけ。祖母がプロ野球中継にいきなり夢中になり、ルールを覚え、走者に「はよ走らんかいね!」と大声で応援していた金切り声が耳に残っている。僧侶だった祖父は夜伽を終え、黒衣から着物に着替えて帯を締め直し、幸せそうに晩酌していた。法話のために熱心に勉強し、1年に何冊もノートをしたためていた。

「よっちゃん知っとるかいね。人間の細胞は60兆個もあるといね。身体も一つの宇宙やわいね。」とその日仕入れた知識をおすそわけしてくれた。奥の和室の寝床に一緒に入るときはラジオの落語が流れていた。夏は窓が開けっ放しで、虫の音や、近くの軟式テニスコートでボールが行き来する音が聞こえた。祖父は必ず「なむあみだぶつ」を繰り返し口にしながら寝付いていた。祖父にとっては死は怖いものではなさそうだった。

 

あの時間だけが穏やかな気持ちになる心休まる時間だった。温かい祖父母がそばにいなかったら、ぼくはとっくにもっと壊れていた。受けた愛は我が子に返す。そう決めた。

家族や家庭に、そもそも何の期待もできないように、ぼくは育ってしまった。でも、家庭を持ち、子どもを授かった以上、子どもたちには家族や家庭の素晴らしさをちゃんと感じさせなくてはいけないのだ。その思いは、こんな家庭環境だったからこそ、かえって強い。だからこの生き方を選択した。そしてこれもまた、反抗なのである。