読書めも〜『重森三玲 庭を見る心得』

重森三玲『庭を見る心得』/重森三玲/2020/平凡社

・誰だって、自分の家ほど好きなものはない。どんなに遠方へ出掛けていても、用事が終わり次第、いそいで自分の家に帰る。どんなに立派なホテルに泊まっても、どんなに美しい友人やその他の家に泊まっていても、出来るだけ早く自分の家に帰りたい。自分の家がどんなに貧しくても、どんなに穢くても、又はどんなに不便な場所にあっても、兎も角自分の家に帰る。その思いは私だけではないと思う。
 第一自分の家ほど自由な場所はない。眠い時には、どこにでも自由に、ひっくり返って眠られるし、欲しいものがあれば自由に、たとえそれが拙いものでも食べられるし、茶の一ぱいでも遠慮がいらぬし、ご馳走などと挨拶するに及ばない。その自由さと、気楽さとが、どこにもないほど自分の家にはあるからだ。
 しかし、更にもまして、自分の家が何よりも良いということには、家庭の円満ということが第一条件である。家庭に円満さがない場合は、逆に自分の家ほどつまらないものはないし、自分の家も、自分の生活も嫌になる訳だ。そして家庭の円満ということは、一家全員の責任であるが、その中心となる夫婦間の円満と父子に対する愛情である。

・親が子を育て、師が弟子を育てる時も、真心から手掛けることによって可愛さが生まれるのです。(中略)つまり手掛けるということは、それだけ苦心が重なっていることです。今日の時代は、苦心を出来るだけ避けるような時代になりました。それも一面によいところはあるのですが、自ら進んで、何事も苦労することほど、自分をみがくことはないと思います。みがきの掛かってない人間は、人間としての深さが足りないと思います。(中略)人間にとって、美の解らない人が最大の不幸だと、誰かが言った言葉がありますが、全くその通りだと思います。

大自然は自分の思うままにはならないが、庭園と言う一つの小自然美は、思う存分に作ることができる。自由自在に思う存分に作り得る庭と言うものは、そんなところから生まれたのだと言える。

・第一の問題は、依頼者を設計することである。

・昔から、庭のある家には医者が入らないという言い伝えがある。(中略)それだけ庭の周囲の空間が多い訳だから、それだけでも空気の流通が良く、従って身体の健康と言う点には大きな利益がある筈である。空気が清潔で、日当たりが良いのだから申し分ない訳で、どうしても庭園と言うものが必要となる。

・人間本来裸であるべきである。官庁や会社の肩書を名刺に刷ったり、話しに出さぬと通用しないと考えるのは、幾等お偉い方でも小人に等しい訳であり、頭の高いほど小人だと見て差支えない。物は識わぬほどがよく、技術は器用さがないほどよく、金は無くて有るように言わぬほどよく、有って無いように言わぬほどよく、すべて無為であることがよい。無為の宝庫は時間的にも空間的にも、無限に摂取してよく、又摂取出来るのである。

・庭園はやはり生きた芸術品であり、日々生長し変化をつづけているものである限り、手入れということは一番大切なことでる。幾等私共が一生懸命に努力した策定でも、駄目になってしまうのである。

・仏教に於ける因縁とか因果とかいうことも、やはり愛情によって起こることであり、愛情のなくなったところに離れて行く問題が起こるのである。だから無言の物質と雖も、限りなく愛してやることである。

・(龍安寺の石庭について)永遠と瞬間とはここでは同居しているのである、永遠と瞬間とは同じものなのである。

・人間が生活する限りにおいて、あらゆる面で自然を基本としなければならない。自然は時によっては悪魔であり荒神であるが、常には崇敬と愛顧の対象である。必然的に自然を恐れ必然的に自然を畏敬する。自然を征服するなどという近代人の誤った考え方は毛頭もっていないし、もつことは許されなかった。(中略)自然の美が理解できればできるほど、自然の美には手も足も出ないし、人間に許される範囲においてのみ、別な自然を創作しなければならない。

・それに私の性質が、頭を低くすることが何より嬉しいことだし、万事頭を下げることが、処生の秘訣だと思っているし、頭を低くすることによって損はないのだから低くするに限る。どうせつまらない私のことだから、頭を上げるほどの何ものもないのだから、それは当然なことであるが、兎も角頭を下げることほど気持ちのよいことはない。それを、何だかこの松が教えてくれているようでもあり、この庭の主人木としてのこの松が、頭から枝を垂れてくれているのは、丁度私と同じ気持を表してくれているのである。