相棒

今日は気になっていた庭の伸びた草をひたすらむしった。ゴミ袋にして6袋がパンパンになるくらいの量を抜きに抜きまくった。中腰で腰にわるい。二の腕が痛い。場所によっては直射日光がジリジリ。

たいへんであったが、ぼくに逐一メルがついてくる。草を抜いたところから、虫が出てきたりミミズがでてきたりすることを知っている。コオロギやバッタなどを美味しそうに食べている。ぼくもそれがうれしくて張り合いがでて、全部やりきれた。まさにwin-winの関係である。メルがいなかったら、孤独でどこかで「今日はここまで」と踏ん切りをつけていただろう。にしても、土の中にもちゃんと生態系があるものだ。「まだまだ、知らないこと、見えてないことばかりなんですよ。」とこないだ近所のママさんが言っていたことを思い出す。そのとおりなのだ。

草をむしり、庭を見る。さっぱりして清々しい気持ちになる。手でやるからムラがある。そのムラがいい。機械で一律同じようにバッサリ切るのはカンタンだ。だけど味がないし、知恵もいらない。人間が自然を力で押さえつけ、コントロールしようというコンクリートの地面とさほど変わらない。

適度な密度というのがあるようで、それを「美しい」と思うように人間はできている。雑草の思うがままに茂りすぎると空気が淀んでくる。それをほどよく間引く。ところどころあえて残したり。土と人間と草のなんとなくの心地よい「あんばい」ができる。それが楽しい。そう感じるようになったのは香山先生の軽井沢の庭を拝見したとき。植物の構成、高低の付け方、家の中からの見え方など、その「あんばい」が絶妙に思えて、ほんとうに美しかった。先生のお描きになる温かく美しいドローイングさながらであった。草をむしりながら全体の調和の「ハーモニー」が頭におありなのだろう。ぼくはとても真似できないが、一律に雑草は一網打尽がいいというわけではなさそうだ、という気付きは大事にしたい。

午前中は普段はメルは寝ているが、今日はご馳走を追いかけまくって満足したのだろう。その後は中庭にペタッと座り込んで平和そうに寝ていた。

合鴨農法平安時代からあると言われるが、とても分かる気がした。

長女が「パパにはついてくるし、抱っこも逃げない」とヤキモチをやいている。エサもあげるし、ウンチも取るし掃除もするのはぼくだから、そのくらいの恩恵はあろう。

夕焼け時に抱っこして長女と一緒に夕焼けを見せる。特に感慨もなさそうであったが、腕の中で大人しかった。

「メルの目に、おうちが映ってる。こっちの目は、夕焼けがうつってるかな」

長女が顔の横についているメルの目を間近で覗き込む。

すっかり慣れてくれたし、放っておいてもちゃんと中庭に帰ってくる。なくてはならない家族になった。

恩師から心のこもったお手紙とワインの贈り物が届く。うれしい。いつものことだけど、簡潔でありながら一言が重く、気持ちが伝わるスマートな文に感じ入る。子どもたちにもお礼をいう。ワインは味わえないので、ジュースを買ってあげることにする。