インフラ人材

インフラストラクチャーとは社会基盤、具体的には水道やガス、電気、道路、インターネットなど生活の基盤になくてはならないものを指すのが一般的な定義とされる。

でもそれを「人の生活に必要不可欠だけど、ありがたみに普段は感謝しないもの。いいかえれば、それがなくなったときに価値に気づくもの」と捉えたらどうだろうか。そうなると、親だってインフラである。逆に言うと、普段はありがたがられない程度の存在感がいい塩梅なのだろう。事務作業や家事という仕事もそれに近い。停滞させず、流れていれば気づかない。潤滑油だってそうだ。歯車を回すにはなくてはならないが、グリースに感謝することは稀だ。

無は実に強い。目に見えないもの、普段は気づかないものだって、ちゃんと価値があるわけだ。目立とうとしたり、存在感を示すこと、そうなることがすべてではない。グリースのような人材が社会を成り立たせる上では目立つ人と同じように、いやそれ以上に大事な役割を果たしている。歯車になることだけが社会人になるすべてではない。インフラ人材はまだ社会や教育は注目してないが、これからは脚光を浴びていくだろう。歯車は機械である。潤滑油は生物だ。敬い、頭を下げることを知っている。ぼくもこれからはよりそういう親にも社会人になるように心がけていきたい。

他方で、インフラの顔をしているが、実はなくても困らないものだってたくさんある。リニアモーターカーや新幹線。だれが必要だといっているのだろう。必要性より利権が先にきているように思えてならない。