あきらめ

いとこのお兄ちゃんと話をしていて「ぼくは、あきらめてばっかりの人生だよ。」とぼくがいうと、いとこが「大人だ。諦めは、明らめ、明らかに見るということだよ。」と教えてくれた。あきらめて、沈黙し、ときに戻ることをいとわないことに、こっちに帰ってきてから慣れた。よくもわるくもあるのだろう。

例えば、仕事でも人生でも「思い通りにならない比率」みたいなものが、このA.I.の時代とか、測れないのだろうか。就職先とか、この比率を開示すれば、応募者にも直接影響しそうだ。平均年収よりずっと意味がある。いまのぼくの働いている役所は、99%くらいが思い通りにはならない。1%あるならまだいい方だ。残りの1%をがんばるものの、恐らくその数字が8割くらいを超えると鼻から諦める姿勢が基本になることも仕方ない。思うことが、無駄に思えてくる。周囲もそんなかんじだから、一向に生産性は上がらない。一方、前のアメリカ企業ではどうだったか。思い通りにならない比率は3割くらいだった。であるから、ダメなものは変えて、思い通りにしてみせようという努力ができた。自ずと人も出ていくし、生産性を下げる人、もともと低い人はときに出ていってもらうので、変わる。この比率は、ストレスに対する構え方、さらにはエネルギーの注ぎ方に直接影響を及ぼすはずで、だれか研究してないのかしら。

そして、あきらめることになれると、人生ものすごく楽なことにも気づいた。逆に、一度あきらめることに慣れると、がんばるところには戻りにくい。言い換えたら、思い通りになる比率が高いところから低いところに流れるのは簡単だが、逆に流れるのは相当なエネルギーが要る。思いは高いところから湧き、低いところに流れ、そして溜まるのだね。高いところから流れるか、低いところで流されるか。必死で泳ぐことの方が、しんどい。だからみんな頑張って泳いでいることを称賛したくなるのだろう。

そう考えたら、鮭の凄さがわかる。子どもを高いところで生むために、滝まで昇る。我が子にはやはり、思う側、高い方で産む方がいいのだろう。

ぼくの場合、低いところにいるときは、沈まないようには気をつけて、川に浮かぶ木片のように意志は持たないようになった。意志を持たないやつは軽いから浮く。でもそれだと役に立ってる気がしないので、せめてもの償いで、給料は半分はもらわないことにして、何も求めない。

必死で泳いでいるときに比べて、世界の見え方が変わることに気づいた。自己中心から、もっと俯瞰的に、世界が大きな流れによって動いていることを知る。自分がちっぽけであることが分かる。「明らめ」とはこの景色のことなのだろうか。

こんな時間も人生にはあってもいいのだろう。がんばることと、あきらめること、そのどちらも人間は持ち合わせている。でもやはり、一番いいのは、がんばることが好きな状態に自分を持っていっていくことだと思う。好きでやっている人は、周りからはがんばっているように見えるけど、本人は「好きでやっているだけ」とサラリというものだ。苦労を苦労と思わない。そういう人になれたら素敵だ。

例えば米農家さん。半年間手塩にかけて育ててきた稲を、収穫直前に通った台風で根こそぎやられた。そんな状況下でも、「自然には勝てないわね。でも自然の恵みのおかげで、お米はできるわけだから」と自然に感謝し、文句を言わず田んぼの片付けに向かう農家さんに出会ったことがある。全く思い通りにはなってはいない。でも、ぼくなんかのような非生産的な諦めではなく、泰然と世界を見つめ、自分の役割を位置づけているからこそのしなやかな強さがある。実にかっこいい。

目指すは、あの心構えである。その時は思い通りにならなかったけど、あとから振り返れば、よかったといういわゆる「雨降って地固まる」ケースもある。だから人生はややこしく、面白いはずだ。長い目と、広い視野を持った上で、目の前のことを全力でやるということ。そして、いつかまた滝を昇る日がくる。それまで鋭気を養うのである。