母の日

この連休中は家の内外をたくさん整理できてよかった。普段手をつけられていないところにも手を入れて、随分デトックスもできた。

その中で、母が使っていたであろう白いポシェットと金色の長財布を、長女と次女にあげた。以前母の家がなくなるときに、形見としてとっておいたやつだ。どちらも素材がラメのようになって光沢がある。長女と次女も取り合いになるくらいカワイイと気に入ってくれたようだ。「おばあちゃんのだったの?」と会ったことのない祖母への思いを馳せている。息子はその財布の中に詰め物として入っていた新聞の塊を広げ、なんと昭和48年のものでたまげている。ぼくが生まれる7年も前だ。

「おばあちゃんに会いたいな」と長女がつぶやく。

 

彼ら自身の母への手紙は金曜日に渡してしまっていた。妻が買い物に行っているあいだに似顔絵と文で書いた。みんな内緒にしようと話をしていたから、妻の車がガレージに帰ってくる音がすると同時にみんなそそくさと紙を隠す。しかし次女は妻の顔をみるとにやけてしまって、我慢できず、先に渡してしまう。

それをみて「まだ渡さないでほしかった」と、まだ書ききってなかった長女は泣いてしまう。サプライズの機会を失ってしまい残念なのだろう。ぼくが慰めて、最後まで書ききる。長女は絵と文を別々で仕上げた。

一連のドタバタをみていた息子も「はい」と渡していた。

息子の文は彼らしくあっさりしていて「いつも洗濯と食事をつくってくれてありがとう」というものだった。物足りない妻は「どこが好きか書いて」と注文を出していた。

 

今日は朝から長女が起きてすぐ妻に「ありがとう」といったことから、次女と息子も続いていた。長女はちゃんと覚えて気にしていたのだという。ぼくはまだ寝ぼけていて、そのほのぼのしたやりとりをぼんやりと聞いていた。

続いて、娘二人は寝床にあるアルバムを取り出して、いろいろ見ている。自分の七五三のときの写真を広げては、寝ているぼくに「起きて。見て」と見せてくる。そのあとはぼくの小さいころのアルバムを出してきて、「これがパパ?」と一枚一枚探している。これが母だと教えたり、小さい頃のいとこを見つけたり。ぼくが小学校6年のときの写真をみつける。ランドセルを背負って、黄色い安全帽をかぶり、夏服の制服を着ている。家の玄関先で撮ったもの。身体は背中を向けて、顔はこっちを向いている。正確には母に撮影のために無理やり向かせられているのだろう、ふてくされた顔をしている。季節は夏のようでこんがり焼けている。その佇まい、ずいぶん息子と似ている。家族みんなそう思うようだ。息子の顔は目は妻のようにはっきり大きいが、口元はぼくに似ているらしい。

 

長女が「お花あげたい」というから、彼女を連れて一緒に花屋に行く。カーネーションと、まだつぼみのユリを選んで買ってあげた。家に帰って「ありがとう」といいながら妻に渡していた。「わたしがあげておいたからね」と兄と妹にそのあと報告していた。次女も息子もそれぞれ同じカーネーションを妻に渡しながら「ありがとう」ということを繰り返す。なんとなく、大きくなっても長女がいろいろ先に気を回して「わたしやっといたからね」と主導権を発揮してくれるんじゃないかと思える出来事であった。頼りになる。