大きな木の下で

今日は一日、おそらく年間で最も気持ちのいい晴天であった。

朝は次女を自転車に乗せて保育園まで歩き、いつものようにいろんな話をする。桜も菜の花も道中咲いていて、とても気持ちがいい。紫色の花の蜜がおいしいことを教えてくれる。

途中の結婚式場の駐車場で「ここ、夜にクマでるんでしょ」と次女が思い出して、ぼくが「夜じゃなくて、朝もでるみたいだよ」と返したことに端を発して、そこからずっとクマにあったときの対処法の話をした。クマは人間を最初から食べようとしていないこと、目があってなかったら、そっと離れればいいこと。目があったら、そのままゆっくり後ろにさがること。

「背中をみせたら、襲ってくるんだって」

「なんで」

「なんでかな」

声色が終始不安そうだ。

「でもね、人間がいると分かっていたら、クマはわざわざ近寄ってこないんだって。子どのも声がしたら、こないってせんせい、いってたよ。」

「そうなんだ」

保育園につくころにその話をして、少し元気になった。

 

家に戻ると、コップと歯ブラシを忘れているのに気づく。起きてきた息子に届けてもらうようにお願いする。朝食を食べたあと、息子が自転車で向かう。

長女はずっと屋根でねっころがったり、「おみくじ」を画用紙に描いて切り出して、日がな日向ぼっこをして過ごした。せっせとつくっている。あたりとはずれをそれぞれに何個ずつにしようか悩みながら何個もつくり、それを折り曲げてティッシュの空き箱にいれる。兄と妹にやらせて、あたりが出たらきれいな石を景品であげている。兄から「おまえ、あげるばかりで利益がないやん」とつっこまれ、「1回10円とかにしたら」と提案されている。長女、「そうする」と即答。

息子も最初屋根に来て勉強をしようとしたが、風が強くてできないと下階のこたつにいった。

お昼は卵焼きをつくってあげて、公文の新年度のテストがあるから二人を公文に送る。家に戻ると妻が帰ってきていた。

干していたスタッドレスタイヤを倉庫にしまったり、妻が職場から持ってきた樹をうえたり、やりたかった雑事もできた。

 

夕焼けも、格別にだった。雲ひとつない空に浮かぶまん丸の真っ赤な太陽が、次第に海に沈んでいく。長女と次女で一緒になってその一部始終をみつめる。

「カーン先生って、このとき、話しかけちゃダメなんでしょ」と次女。

ぼくが前いってた話を覚えていたらしい。でも、我慢できずに「パパ、みてて」と次女から話しかけられ、見たら、手に握った大根の漬物を食いちぎって豪快に食べるというさまをみせてきた。

「虹みたいな、色だね」と長女が空の色を不思議がっている。

海に近づくにつれ、太陽はどんどんカタチを変えた。キノコのカタチになり、四角になり、最後に三角になって、海の中に消えていった。

「沈んだね。」とぼくがいうと、「海に沈んでも、太陽は大丈夫だよ」と次女がつぶやく。

「太陽は、遠くにあって、海に沈むようにみえるけど、海には入ってないんだよ」と訂正するとすぐに「知ってる」と返ってきた。知ってたのか。

 

長女がぼくのところにくる、抱っこする。

「見事なショーだったねぇ。夕焼け。」とぼく。

「うん。」

「ねえ、オーストラリアは、朝になったの?」と長女。

その説明には経度の説明をしなくてはいけない。地球儀を持ってきてごらんといって、横の洗面所の電気をつけて太陽にみたて、地球儀の半分を照らしながら、昼と夜と時差の説明をしてあげたら理解していた。息子も横で聞いていた。すでに知ってることだ。

「地軸の傾きは、まだ早いかな、また今度ね」とぼくがつぶやくと、息子がそれも知ってると説明してくれる。

「2度だっけ。3度だっけ」

「23.4度。」

「あ、そうそう」

 

そして今日は何より日中、とても嬉しいことがあった。ピンポンとインターホンが鳴って、郵便がきた。コストコのクレジットカードだろうとたかがくくっていたら、なんと尊敬してやまない先生から長女あての、ありがたく感動的なお返事だった。ぼくも子どものように飛び上がって、声をあげて感激する。「大きな木の下で」の絵も描いてくださった。哀愁と迫力、そして憩いと安らぎがある得も言われぬ絵で、みんなで息を飲む。家宝にしよう。言及されているウィリアム・マクニールの『疫病と世界史』も読むぞ。