うしろうしろ

悲しくて寝れない。

 

家に帰ると息子が二階からかけよってきて、「父ちゃ〜ん、志村けん死んだ」と泣き真似をしながら、しょんぼりしている。

日本に生まれて志村けんさんを、少年時代に心から笑える世代で幸せだったとおもう。子どもたちにはいくつかお裾分けしていた。

 

悶々とする日々がつづく。良いか悪いかはさておき、国のトップがウィルスを「敵」と表現し、「勝つ」と言ったそうな。
どうも違和感があり、なんでかを考える。
これまで風邪が流行しても「敵がきたぞ〜」と思ったことはないし、東日本大震災のときも、人は違えど津波を「敵」とは言わなかったはずだ。
台風だって、噴火だって。

 

息子に付き合ってもらうことにした。

「トップにしてみたら、都合のわるいことはぜんぶ『敵』なんじゃないの。ハハハ」
「そうなのかもしれないけどさ。津波とウィルス、何が違うの?」
「ウィルスは生きていて、津波は生きていない」

 

わかる。が、今夜はひつこい。
津波だって、どんどん大きくなるし、動いて命を奪う。生き物って何?」

問答を繰り返した末、最終的に「エネルギーを自分で得ているか」にたどり着く。
津波マントルからの地殻の動きによって勝手に起きてるだけ。ウィルスは寄生してエネルギーを得ている」
なるほど。

「でもさ、山火事はどうだ。あれだって酸素というエネルギーを得ているから『生き物』ということになる」
「あれは空気からやん」
「空気じゃだめなん?」
「うーん」

 

もうそのくらいにしよう。
でも、少し見えた。エネルギーの供給がポイントだとすると、やがてそれが途絶えるときがくる。
その状態を「死」と呼ぶ。

つまり死と呼べそうな状態があるかないか、そこが違う。
たしかに、ウィルスにも死はありそうだ。

死がある相手は「敵」にできて「戦う」ことができる。
といことはだ。国のトップが「殺意」を表明したということだ。ぼくの違和感は、息子のおかげでどうもそこにあったのだと気づく。

 

「あれ。でもこの国は戦争しないんじゃなかったっけ。」とぼく。
「あれは人と人でしょ」と即座にツッコまれる。
「『人に限る』なんて書いてない。」

念のため、一緒に憲法9条を読んでみる。
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ(戦争と武力による威嚇または行使)を放棄する」
やはり「人」という言葉はない。薬もウィルスにとっては武力だろう。
だけど、「ウィルス国」はさすがにないので国際紛争にはあたらず、抵触しないんじゃないか、というのが息子の解釈。そういうことか。

 

もう一つの違和感。
戦線布告されたなんてつゆ知らず、勝とうとも思っていない相手に「勝つ」って、どんな状態なのか。それがわからない。

 

「ウィルスの感染が、ゼロになったら。」
たしかに。人類がゼロになるのとどっちが早いか、か。それなら勝ち目あるのかもしれない。

 

それでも、なんか腑に落ちない。現時点でたくさんの人が死んでいる。人類全体なんてどうでもよい。「もう負けた。」そう悲しんだり、苦しんでいる人もたくさんいる。そこまで付き合っていられない。

 

「キングダム、読んだだろ。あそこでの戦さは、どうなったら終わった?」
「総大将が、やられたら。」
「そう。ってことは、ぼくらの総大将が先にやられるか。ウィルスの総大将が先にやられるか、になる。」
「ウィルスの総大将って、だれ?」
「わからないな。」
「ぼくたち、勝手に繁殖してるだけですぅ〜」
「そう。」

 

総大将も存在せず、罪の意識なく寄生するウイルスには伝わらない。お構いなしで繁殖という名の「攻撃」が続く。
降伏したってわかってくれない。やっぱり「戦い」と捉えるのは、しんどい。

 

単なる言葉のあや、という考えもあろう。でも、戦いと言わないと士気が高ぶらず、一致団結や協力ができないなら、なおさら深刻だ。


なんともやりきれない気持ちになってくる。

 

「だっふんだ」
言いたくなって、口にした。

「なにそれ?」と息子が笑った。少し、気が晴れた。やっぱり、志村けんさんは偉大だ。