息子と将棋

息子を将棋の大会につれていくのはもうかれこれ5、6年になる。何を隠そう、一度も勝ったことがない。記念受験ならぬ記念出場が続いている。小5になっても状況かわらず、そそくさと負けて、プロ棋士に対戦してもらえる「指導対局」に回る。ほかをみると低学年ばかりで、ひとり身長が抜けている。

先生の棋士藤井聡太さんの師匠の杉下八段であった。弱小の息子にも、丁寧に「もっといい手がある」とじっくり付き合ってくれて、最後、息子が詰めるところまで相手をしてくれる。他の子たちは先に終わって、息子が一人になっても、じっくり語りかけるように教えてくれる。運営スタッフは昼食に連れていきたいのだろう、周りでソワソワ待機している。

これまでの指導対局棋士の場合、優しくても、ただ淡々と指して負かされて、最後に一言だけ添える、というのが通例だった。ちょっと「業務感」がある。杉本先生の場合は違った。途中でも「いまのよりもっとやらなきゃいけないことがある」と、息子の指した手を戻して教えてくれる丁寧さがあった。「先生」ってかんじなのだ。息子も真剣に聞いていた。

藤井聡太さんは天才的な才能があったことは間違いないにせよ、さらにこんな真摯な方が師匠だったら、伸びるだろうなと実感できた。日頃の息子への接し方を反省し、教育とはこうあるべきだとつくづく。自分で考えさせて、深めていくのにつきあうのだ。

 

それにしても、息子は勝つわけでもないのに、なぜ「行きたい」と行き続けることができるのだろう。負けず嫌いのぼくにはよくわからない。もちろん、わるいことではない。負けた瞬間は悔しそうな顔をするけれど、すぐに立ち直り、家でやることもしない。二週間に一回、テニスの前に公民館にいって指すというのもずっと続けている。二年前は行くだけは行って、皆勤賞だったくらいだ。でもその手応えはいまいちわからない。妻によると「いろんなやつとできるから」みたないのが理由だそうだ。

 

「百折不撓」一昨年、息子がイトコからもらった木村一基王位の色紙にあった言葉。

「みなさん、将棋は二人でやって、一人は必ずまけるんです。」

負けることを後ろめたく思うな。それよりも、負けを重ねて、どうして負けたのかを考えることが大事ということをおっしゃっていたな。そういう意味だと、息子はいまいい経験をしているのかもしれない。なんで負けたかは考えてないので意味はないかもしれないが、不撓ではある。それだけもたいしたものだ。

 

この大会も残すところあと1回になった。

「中学生になったら、出られないの?」

「あるけど、出るのは中学生になったら、将棋部とか、ガッツリやってる強い人だけや」

「出ちゃだめなん?」

「だめじゃないけどさ」

よくいえば楽観的。わるくいえばハングリーでない。生活の中心に本があって、その他は好奇心はあるからなんでも面白いと楽しむ。一方で「これだ」と絞ることはない。他の子はいろいろ絞れて来ている気がするので、これでいいのかどうかわからないが、小学校のこの自由で伸びやかな時間。いましかない。元気に学校へ行って、楽しかったと毎日を過ごしてくれればいい。中学校で何部にするべきか、だけは気になるものの。