読書めも〜『暇と退屈の倫理学』

<暇と退屈の倫理学 國分功一郎/2011/朝日出版社

・定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
 退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。

・では、ここから退屈について考えるとどうなるか?人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。人間は一つの環世界にとどまっていられないのだ。

・人間にとって、生き延び、そして成長していくこととは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。


・人は習慣を創造し、環世界を獲得していく。そうすることで周囲をシグナルの体系へと変換する。なぜそうするのかと言えば、ものを考えないですむようにするためである。四六時中新しいものに出会って考えては生きていけない。
 ならば逆に、人がものを考えざるを得ないのは、そうして作り上げてきた環世界に変化が起こったときであろう。つまり、環世界に何か新しい要素が「不法侵入」してきて、多かれ少なかれ習慣の変更を迫られる、そうしたときであろう。

 

・贅沢は浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。
 現代社会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて、消費者になることを強いられている。物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている。
 浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。それに現れる状態が満足である。
 それに対して、消費は物ではなくて観念を対象としているから、いつまでも終わらない。終わらないし満足も得られないから、満足をもとめてさらに消費が継続され、次第に過激化する。満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
 これこそが現代社会の消費社会によって引き起こされる退屈の姿であり、本書ではこれを疎外と呼んだ。
 いかにしてこの状態を脱したらよいかだろうか?消費行動においては人は物を受け取らない。だから消費が延々と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。

・あの場でハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったから、に他ならない。そしてなぜ楽しめなかったかと言えば、答えは簡単であって、大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである。

・人間であるとは、おおむね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きることであった。そして、何かをきっかけとしてそのなかの退屈がせり出してきたとき、人は退屈の第三形式=第一形式へと逃げ込むのだった。
 ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。
(中略)
この退屈の第二形式という概念を使えば、消費社会についてもさらに別様の定義が可能である。つまり消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だと言うことができる。
 人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームプレーヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。
 人類は気晴らしという楽しみを想像する知恵をもっている。それから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。

・楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。
 しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。
 これは少しも難しいことではない。
 食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったいいつ誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。 

 

・世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるよになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

・楽しむことを知り、思考させられ、待ち構えることができるようになった人間のなかでは、この能力が、退屈とどう向き合って生きていくべきかという問いを離れ、別の方向への拡張されていくのではないかと言いたいのである。

・何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。自分の環世界ではあり得なかったそうした事実を前にして、人は一瞬立ち止まる。そして思考する。しかし、それを思考し続けることはとてもむずかしい。なぜなら、人は思考をすることを避けたいからである。
 けれど、<動物になること>をよく知る人なら、何かおかしいと感じさせるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。
 退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害−私たちの生を生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ちている。にもかかわらず、私たちはそれを思考しないように生きている。(ドゥルーズはこう言っている。「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学の最も強力な動機のひとつである。」)

 退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるよになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。

 マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会を作らねばならない。そして、物を受け取り、楽しむのが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。