読書めも〜『今和次郎 思い出の品の整理学』

今和次郎 思い出の品の整理学』(今和次郎著/平凡社/2019)

 

【鈍才先生】

学問も仕事も、人生とともに永遠のものだ。生きているうちに、これだけはやっておかなければなどと考えたのでは、追われる者の心境になる。鈍才にはその日その日が存在するだけだ。

人間には、身体の都合も気分の都合もある。それを今日の機械主義で小刻みにやれよ、というのが、職場にいて定年の来るまでの多くの人々の行動になるわけだろうが、そうすると、赴くままに行動できる機会というものは、定年後として、学校にはいる前の子どものときだけになる。子ども時代は親の扶養家族の一員として、また定年退職後は、なにかのかたちの社会保障の枠の中でだろうが。

 

【カマド道楽】

カマドの有効さは、その焚口の始末などできまるのであるが、子供たちの当番の朝の様子をみていると、何でもただ焚きやすい、そして整えてある手近かな焚物をどんどん焚く方式でやっているのを見るばかりである。

子供たちには道楽心がない。無理もない、かれらには愉快なことは別にあるのだ。女の子たちと、幼いときに、ママゴトをやって遊んだときのあの無心で愉しんだ心が欠けてしまっている。学校へ通うようになると、宿題や何かに追われる心が重点となって、台所をやることなどは事務的になる。事務的となれば道楽的にはなりがたい。お菓子を作るとか、特別お料理を作るときには特別に愉しいような道楽普でやるようだが、カマドの焚き方のような地味な事は、到底それは子供たちの道楽事とはなりにくいのがもっともなことだ。と、父さんたるわたくしが自問自答せざるを得ないのである。

道楽事にしてはじめて科学にもなる。能率にも合理にも関連してくる。昔、浮世を捨てた心境の人たちによってはじめられた茶道というものも、このような心境のうちに、企てられて、伸びて、あの見事さまで育てられたのだとも思えてくるのである。(中略)

しかし、今日のこの窮屈な時代においては、積極的な努力が封ぜられているのだから、ともまた考えられてくるのである。


【子ども部屋不要論】

最近、モダンな家を建てて住んでいる友人を訪問したら、やはり一歳なにがしかの幼児がおり、その子が、このごろの雑誌などの写真で見るような、完全孤立的な子ども部屋に閉じ込めらていた。

手すりつきの寝台、壁におもちゃ棚、敷物、カーテン、そして鍵付きのドア、というおとなの一方的な考えで設計した幼児部屋のなかへである。

形式的合理主義の立場からは、質の違うおとなと幼児との分離はそれで満点であろうけれど、家族社会というものと全然縁切りしたような、そういう壁のなかで育つ子どもというものは、身体的にはとにかく、心的な方面うまく育つものであるかどうか考えさせられたのである。

(中略)

そうして育った子どもというものは家族社会のなかで、家族たちとともに泳ぐように暮らしている幼児と比べると、どこか融通のきかない、抽象的な心の持主になってしまうのではないか。言葉を習う機会も少ないし、他人の感情を読む力も育たないし、自分の感情を人にぶっつけて反響をみるなどの人生修業が、ゼロに近い状態だといわなければならないからである。

ここで、「住宅は住むための機械である」という、近代住宅建築の大テーマそのものについても考えてみたくなる。

生活には、労働生活と休養生活の二大区分があるといえるだろうが、一は広い意味の職場生活で、他は、自分の家の生活だが、近代の職場生活は、工場であると事務所であるのにかかわらず、めいめいの心身を規制づけるような座に縛り付ける。

いうならば、機械的な行動を、機械的な環境において営ませる傾向であるのだが、仕事を終えてわが家に帰っても、住宅で機械であるという空間に縛られたのでは、どうかというのが疑問になる。

24時間、工場や事務所と同じイデオロギーで生きるということには疑いがある。「だからですよ、休みの日には、山とか、海とか、温泉とかにいって、おおにバカンスを楽しむのが近代人の権利というわけですよ」と彼、彼女たちから聞けるのも、もっともだとうなづける。

そうだとすると、最近の団地アパートそのももは、多少とも住宅の機械化といっていいのだが、それがふえればふえるほど、運輸当局やバス会社、さてはホテル、国民宿舎などが忙しいという理屈になるかもしれない。

つまり職場の機械化、住宅の機械化に対応して、それらでバランスを求めているのだと考えられるからだ。

しかし、住宅の機械化をきらって、庭や花壇、芝生などのある郊外住宅を求めたい、という多数の人たちもあるわけだ。

 

【景色買い】

とにかく、現代都市生活者たちは、高い税金を納めた上に、更に、気分の快適と健康の保持のために、休日に、レジャー費を財布に入れて、景色を買うに乗りものにのって、高価な場代を払ってということになっている。しかも、本当の自然に親しむことが、都市生活者に習性となり切っている歪みのために、つい物見遊山的な行動になりがちなのだ。そこで、意味のない散財、つまり浪費をしてしまうことにもなる。

そういう状況をキャッチして、景色の売り手である地元の人々は、地元の景色を呼ぶお客さんのご入来だと、愛嬌を満点に振りまいて歓迎する。いろいろな手を考えて、反自然的な方向へと誘引している実情である。それで自然の眺めそのものを買いに行く筈の人たちは、生活というものの認識が薄いために、つい、いわゆる観光の馬鹿さわぎで、エネルギーをも財布をも空しくして帰る羽目になっているのだ。無代で迎えてくれる景色だけを買いに行くだけでいい筈なのに。

 

【人づくりの哲学】

秀才型のばりっとした紳士が、非行青少年について説ききかせても、実感がともなわないから、空転に終わる。愛情の琴線に触れるわけにいかないからだ。なやみも体験していない説教師の説教は、一片の理屈に終わって、感銘を与える力がない。

(中略)

困ったことだ、困ったことだと秀才型の紳士たちは、高い所から見下ろして、補導をうける青少年や、犯罪者の年次的増加について心配している。高度に開発された社会では、知能的頂点とその底辺の格差が増大するために、これまで軽微な道徳的患者だった者が、本格的な患者になるという原理を知らないことはあるまいに、また至当な打つ手を探さなければなるまいのに、高い所からのみ考えている感がある。もっと降りてきて、知能的底辺にいおる人々のことを噛みしめてみなくては、といってみたくなる。

(中略)

生存競争の真っ只中に知能の競技場のかたちで営まれているのが、今日の学校というものだとうけとれるし、また家庭も、そういう社会の魔力にひかれて営まれているのではないかと思われてくる。そして、思いきり高い空で鳴きたいヒバリが象徴しているのが、この世の青少年たちではないのか。

(中略)

人づくりの掛け声は、もともと通産省あたりでよろこぶような、有能な人材を育成するという意味で、その口火が切られたと思えるのであるが、それがしぜんに非行青少年のことに世論が動いたのだ。そして各官庁が、我田引水式に、それはわが省で、おれの所でという風になったことで、人づくりということの内容は2つに割れてしまった。一つは秀才づくり、別の一つは非行青少年の問題というようにだ。そしてこの2つは、一つの言葉から生み出されたのだったが、全く性質がちがい、水と油のように分離せざるを得ない問題なのだ。

(中略)

 事実、家庭においても、秀才づくりと非行青少年をなくする問題とは、矛盾をはらんだまま、同居している感がある。

今日の入学地獄に直面させられている家庭の親たちの理性はこのことにかけては弱い。考えが二次元に分裂して、どうにもならないで苦しんでいるのが実情だ。

(中略)

秀才づくりといえば生存競争と結びつくし、家庭づくりといえばその逆な道が予想されてくる。余程恵まれた例外的な家庭であるなら、万事OKで摩擦なしに進み得ようけれど、いっぱん的には、秀才づくりと家庭づくりは別の道をたどらなければと考えたい。

(中略)

もともと、教育と矯正とは一本のものと考えていいようなのだが、果たして、教育学と矯正学との概念の内容とはどうなのだろうか。いろいろな理屈があるだろうが、家庭教育と家庭矯正と書いてならべてみると、そこにはっきりした区別がないと考えてもいいのではないか。

思いたくはないが、もしも、いまよりもっと、世の中に現象している非行青少年についてのなやみが甚だしくなっていくならば、いまの文部省は秀才教育省とでも改名し、そして法務省から分岐して国民矯正省とでもいう部署をおくことも必要だとなってくるのではないか。

(中略)

現に今日の多くの家庭の母親たちは、わが家に子どものたちの進学の心配と、不良化しないようにとの心配との2つを抱えて、なみなみならぬなやみを経験しつつあることが、婦人会の集まりなどに出てみるとわかる。

(中略)

そこで空想が湧いてくる。一時的でもいいから、法務大臣と文部大臣を交換して、それぞれの場を経験させてみる。もっとやりよい案としては文部省の役人と、法務省の役人との交流をやって、教育というものと矯正というものとの両方を体験させてみる・・・。そうしてからものをいってもらうのでなくては、といいたくなる。もともと道徳と法律との差別は、社会秩序を保つ上に紙一重のちがいのものなんだろうから。