反抗期の心構え

息子は昨日は遊びにいった友人の赤ちゃんと3才児、今日は近所の小学校一年と年少さんの年下をよくかわいがって、遊んでいた。優しくて慕ってくれているようだ。連日、スケボーをさせてもらって興味が湧いてきている模様。

ほんにんも楽しいのだろう、家にいない時間が増えた。もう家の中で育つ年齢は過ぎて、社会に育ててもらうステージなんだろう。親ができるのは土の下の根っこまで。芽が出たら、親の声は届かなくなり、できることはない。

生まれてからこれまで、とりあえず全力で土を耕し、いろんな肥料はまいたつもり。まっすぐ芽は出てくれたと信じている。これからも土いじりはやるが、基本的には間接的な関与になるのだろう。

もう11歳。反抗期がはじまっている。親としても、意識を変えなくてはいけない。子どもの意思を尊重しなくてはいけない。もう親のいうことを素直に聞く年齢ではない。子どもは親の思う通りには育たない。むしろ逆に育つ。親ができることは命令や指示ではなく、援護射撃。なので「〇〇やりなさい」はもう駄目で、問いかけることだったり、同じ目線で一緒にやれるかどうか。親にはより度量が求められる。父親は管理するのではなくて、むしろ世界を広げてあげることが大事なんだとなんかで読んだ。だからなおさら。短所を治そうとするよりも、一つでもいいところをみつけて、それを徹底的に伸ばしてあげればいい。

これまで近くでずっとべったりしてきた分、近くでブンブンまわしたハンマーのように、だいぶ強い遠心力が彼にはかかっている。寂しいが、もう手放す時期なのだ。できるだけ遠くに飛んでいけばいいのである。できれば衛星のように戻ってきてほしいが、それは親のエゴというものだ。少なくとも15年くらいはかかるだろう。

前にも書いたけど、香山先生も「ひとつ、ふたつ、と『つ』が付く間が親と子どもの時期。『とう』になったら、かわるものだよ」とおっしゃっていた。赤ちゃんと親には、磁石が体内にあって、NとSでべったり最初はくっついているけど、「とう」になるときっと子どもの中で極がいれかわり、反発するんだ。

息子はもう学校の帰り道、近所の家で遊んでもらって、まっすぐ帰ってこない。「放課後って、果てしない自由な時間だったよな。あれがいいんだよ。いまの小学生は、忙しすぎるでしょ。」と先生。たしかに、「放つ」という漢字が入っている。

元気で大きくなる、それだけでいいはずなのだ。「優しい」といわれたら、さらに超したことはない。家はベースキャンプで、外で傷ついた身体を癒やし、体力が回復するように骨を休めるようにしてあげるのが理想なのである。

解き放て。全身全霊で、息子が楽しく育つ環境を整えるためにこれまで関わってきたし、一番近くにいたという自負がある分、心の中にぽっかり穴があくかんじもするが、それが成長だし仕方ないのである。

最近はぼくといることが楽しくなさそうなこともしばしば。ぼくがいうことにナイーブに反応し、そして反発する。ぼくもイラッとなる。妻から諌められたり、その都度反省しながら、「構いすぎるな。離れなければ」という気持ちになる。父子の旅、今度はいつ、いけるのだろうか。