BBQで

この10連休で、3回BBQした。たくさんの友人たちと会えて、いろいろ気分転換になった。「これからどうするの?」というのと「お前はこんなもんじゃないからがんばれ」という励ましも複数から。

ぼくはいま自分の人生よりも子どもの人生というのを優先してしまっているところもあるので、あまり覇気がある返事をしなかったことに、旧い友人にはくすぶっているようにみえるし、以前と変わって自信がなくなったようにも映って、歯がゆそうでもあった。

どうして自信をなくしているか。話をしていてわかったことがある。

これまで、ぼくは自分のキャリアで「まちがっている」と思うことは絶対にしなかったし、そうしない職場を選んできた。社会の役に立つ、そのことを少なくとも信じて仕事をしてきた。

だけど今のこの役所という組織の中では「ほんとは、これ、ちがうよな。生産性をあげたり、長期的に価値を出すには違うよな」と思うことばかりというのが正直なところだ。

でも、組織で仕事をし、下っ端である以上、自分の意見はほぼ通らない。「上の意向だから」、「そういうふうにいままでしてきたから」。その理由で事は進む。我慢しながら、歯を食いしばって、耐えなければならない。耐え難きを耐え、我慢もひとつのスキルだと誰かがいっていた。

でも、価値を十分に出せてないと自分が思っている以上、せめて給料の半分はもらわないほうが良かろう、だからこの育児制度を使っているというのもある。半分の給料で、倍の密度で、全力で仕事をする。どれだけ意見が通らなくても、懲りずに出し続ける。そのくらいの貢献で、今の自分の出している価値とのバランスはやっととれるような気がする。

とはいえ、自分の仕事に価値を見出す際に、そんな不信が通底しているというのは、自信が蓄積するわけがない。そこは冷静にわきまえておくべきだともおもう。麻痺せず、自分の理想は失わず、ずっと不適応であることを感じていないくては次の人生のステップへのエネルギーが湧いてこないし、中途から入った身だからこそ、傍から見ておかしいことに気づくし、有意義な指摘ができることもあるはずなのだ。内部でしか通用しない理屈に染まってしまっては存在価値がない。

幸い、今回会った友人たちは元からそういう環境にいない。自分の人生をまだまだ燃焼させようとしてリスクをとって頑張っている奴ばっかりだ。そいつらから「いまのおまえは違う」と言われるのは、まだ「あちら側」としてみられていない証拠だから歓迎すべきなのである。ひさしぶりにこちらもなんか熱いもの、みたいなのが残っているのような気になれた。

泊まりに来ていた友人が、風呂場に「Dear my best friend,stay hungry,stay fish」と密かに書き置きしてくれていた。

期待されなくなったら人生終わりだ。感謝である。