入試の時期

快晴の朝、近くの大学の前とおると、いつになく車がたくさんいた。そうだ入試の日だ。

ハザードをたいた車の列が道路脇にできている。制服を着てリュックを背負った受験生たちが次々降りてくる。引き締まった緊張感が全身から出ている。多くの保護者たちが運転をし、我が子に「がんばってね」と声をかけているのだろう。自然と熱い気持ちになる。

自分の子どもたちを同じように見送る日が来ることを思い浮かべる。がんばっているなら、親としては支え、応援するのみなのだが、天の邪鬼のぼくとしては、これからは問題を解く力も必要かもしれないけど、「何が問題か」と問いを立てる力のほうが大事な気がする。与えられた問題を解くのはここで話題にせずともAIうんぬんの方が得意、みたいなことになるのだろう。そうだとしたら、それに意味を見出したり、そもそも何を問うべきか。それを考えることが人間がやりつづけなきゃいけないことなんじゃないか。問いを立てるのはテクニックではない。センスでしかない。背景にある哲学やら感情やら価値観やら、合理性や数値には直接還元できないモヤモヤしたもの、つまりは人間力、がものすごく効いてくる。それを鍛えるべきなのだ。

前にも書いたけど、科学技術の進歩に直截役に立たない文系学部は大学で肩身が狭い思いをする方針に国がしているとか耳にするけど、とんでもない話だとおもう。科学や技術を進歩させたいなら、同じように人間力も深めないと考えは偏るし、何が豊かなことなのか、わからなくなる。

てなわけで、高校生になった我が子たちには問題を正しく解いているかよりも、人類にとって意味のある問いを投げかけているか、を注視していきたいと思うのである。問いが深ければ、伴って答えを導こうと追求する力もより駆動するだろう。カミオカンデで息子と見た学者たちが「われわれ人類はどこからきたのか」、「宇宙のはじまりはどんなものだったのか」という問いを立て、夢中になって仮説を立て、暗黒物質や陽子崩壊を発見しようと昼夜を問わず研究をしていたように。

願わくば、これからの入試も、その力を測ることに重きが置かれますよう。