読書めも〜『白井晟一の原爆堂 四つの対話』〜

白井晟一の原爆堂 四つの対話』(鈴木了二加藤典洋ほか/晶文社/2018)

【白井昱磨】

・エセー「豆腐」は「もし豆腐に美を感ずるとすれば、それはどういうことなのか」という問いから始まります。そして自然の美とも音楽や美術の美ともちがって「目、感触、想念に反応するだけの美」ではなく、「ながいあいだ日本人の生活の中で栄達者にも失意者にも普遍な『用』として『常』の中で成熟し完成したもの」に生まれる美であり、「あらゆる部分が弁別できないほど、緊密に結合して一つの全体のうちにとけこみ、渾然たる調和に統一されている、そういう完全な単純」であると論じました。「常」とは日常の「常」であり、「用」とは「精神的風土に自ら育った生活の意志によって想像される」ものにおいて、「一つの生命が他の生命に奉仕すること」だとされます。「用」が機能主義の「機能」の素朴な論理と対置して用いられているわけです。
・「豆腐」で終わらず「めし」が論じられたのは「めし」が「豆腐」よりも自明な「用」を示しているからでした。「豆腐」では「用」を通して「美」が取り上げられましたが、「めし」では「美」を「人間が作るものとは言い難い」と退け、「『美』をつくる術が人間の手にあると思い上がったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちくられてしまった」と指摘します。「めし」の原点はそのような切断以前にあり、「めし」はまず「神」に捧げられ「人間の生きる糧であると同時にまた『神』の力を養うもの」でした。「めし」が「単純に手段ではなく、人間の生きる理由であり目的であった」のです。
(中略)日本的な伝統の原点し示された「めし」はこうして「一つの生命が他の生命に奉仕すること」である「用」の究極のかたちとして描かれます。

岡崎乾二郎
・そもそも近代に形成された日本という国家が、明治維新西南戦争と国民同士が殺し合う内戦の結果生まれたものだという意識を持てている人といない人がいますが、日本という国家こそその意味で、近代に血なまぐさい過程を経て創造されたものですよね。その過程は抑圧、隠蔽されて意識されなく、見えなくされているけれど、まだ続いている。また遡れば、縄文以来の古代より、ずっとその殺し合いの歴史は続いてきた。そんな抑圧の過程があったのに、いつまでもその不均衡、非対称的な支配は続いているのに、日本という一つの言葉で安易に代表していいのか、ということはありますね。高橋由一岸田吟香夏目漱石くらいまでの人はこういう過程を体験もしたし常に意識していたと思います。
・そのズレが戦後そして、いわゆるポストモダンとしてと繰り返されているんですね、要するに歴史は終わったと、ノンシャランと歴史を忘却してしまう態度が反復されている。戦後建築家は、実際は屍が累々たるところに、それを忘却させるようなプランをつくってきたわけだから。それは相当、驕慢か無恥でないとできないですよ。
・それがまさに東日本大震災原発事故がまったく収束どころか、放射性物質の流出も手に負えない状況が続いているのに原発再稼働を訴えたりする感性とも通じているように思えます。そういう瓦礫と屍が累々と堆積した場所を平地にならし、ぱっと明るく開けた空間をつくるというのは、みなが求めていたことかもしれませんが、その見かけ上の見通しの良さには欺瞞も感じます。いま現在の都合と見かけだけが先行している。
 が、白井晟一イサム・ノグチのプランには、そういう過去や未来を現在という平面に平坦にならしてしまうという浅薄さがない、その反対です。現在に消化できない、穴を穿っている。なぜ時間をならしてしまうプランで平気なのうだろう。畏れがない。それを抑圧して平気であるのは建築家だけの共通項なのか、政治の反映なのかとたしかに思ってもしまいます。

鈴木了二

・もう30年前も前に「テクノニヒリズム」というエッセイで技術について書きましたが、戦争が二回もあって、あれだけ人が死んだのに、技術だけは反省をしてこなかった。イデオロギーは壊れたり変わったりするけど、技術信仰は変わらずに、近代はそこを無反省のまま突っ走ってきました。技術にはそういった前向きな欲動が、得体の知れないウィルスのように、生理的に備わっている。福島の原発事故は、ぼくにとってはその「テクノニヒリズム」の後日談であたのですが、あの時期の状況は、またしてもと言いますか、予想以上に反省がなかった。それに対して落ち着かない気持ちがあったのだと思います。

・だけど、最初にロースが言った「装飾は犯罪だ」という言葉の中には、むしろ様式が無力化したあともなお自らを主張しようとする建築家という職能それ自体を根本から疑ってかかっているような深い問題があったのだと思います。ロースが装飾そのものを否定したわけではまったくなかったし、かれの発言は、近代建築を正当化してきた合理主義や機能主義を援護するための言葉でもなかった。近代がバラ色の明るい時代として記憶されているとしたら、それは近代主義者たちが書いてきた後づけの歴史によって相変わらずバイアスがかかっているからではないかと思います。長くなるのでここではこれ以上言いませんが、バラ色どころではなくむしろ反対に、近代は人類崩壊の危機から始まったはずで、ロースの装飾批判は、本来はそこに向けられたものでした。でも20世紀はそれをないがしろにして、前向き前向きでここまで来てしまった。

・自分の作品がこうだというのは、むしろ語るべきではないという考え方でした。それは、そこに住む人との関係の中だけの、インティメートな、私的なものとしてあるのであって、外に見せびらかすものではない。だからこそ見せびらかそうとする建築家に対する批判が辛辣になったんですね。職人の領域に、芸術家を気取る建築家が手を突っ込んでくることが許せなかったのです。それが「装飾は犯罪だ」という言葉として鋭く出てくる。ここでの「装飾」とは、職人の平凡さに建築家が無理矢理付け加えようとする「アート」性のことでした。(中略)その点、シザもロースに注目しており、ロースの作品にある「優れた自己抑制と平凡さ」を学ぶげきだ、とまで言っています。こういった文脈で日本の近代建築も再考すべき時期に来ているのではないでしょうか。それからもう一度見直すことができれば、戦後の白井晟一も重要な存在になるでしょう。日本ではそういう人は極めて少ないからです。

・思い返してみると、20世紀で自己反省しないのが「技術」と「メディア」なんですね。ですから、無色透明みたいな顔をしているけれど、どちらも反射的に、自己反省的なものが内部に紛れ込むのを怖れている。メディアそのものへの批判が始まると、だいたい圧殺されるか、祭り上げられるかのどっちかになっています。おそらく、この二つの問題を批判できなければ、さっきのロースのところでお話したような20世紀の初頭に感知された人類崩壊の危機への応答にはならないのではないでしょうか。いくら体制の批判を繰り広げる左翼であれ、右翼であれ、技術とメディアにだけは両方ともおなじように肯定的なので、技術とメディアにだけは両方とも同じように肯定的なので、核心部分では結局深まらないという気がします。
だけど難しいのは、その二つを批判すれば、じゃあお前はどうなんだ、ってすぐなることですよね。お前だってメディアのメリットにあずかっているじゃないか、電気だって使っているじゃないか、ってね。そのときわれわれはどう返答できるのか、そういうところにいま状況は来ているのでしょう。大きな難問です。ただその居心地の悪さを避けて通るのではなく、そこに少しでも感じることのできる反省のような、躊躇するような反応を認めたほうがいいことを、われわれもそろそろ分かったほうがいい。ハンナ・アーレントが『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)の中で、カントを生涯にわたって悩ませたという「理性のスキャンダル」という問題について言っていますが、その意味は、ぼくの理解ですが、理性にとってそれが理性的であればあるほどいいとは必ずしも言えない、ということです。ある段階を超えて理性が突き進むとスキャンダルに至ってしまうという逆説。日本語訳では「理性の不面目」となっており、それは「理性が自己自身と矛盾する」という意味です。それに倣って言えば「技術のスキャンダル」というような状況に入り込んでいる。技術だけが自動運動するようにノーコントロールのまま行ってしまう。その結果、3・11が起こって大災害に見舞われても、相変わらず反省しない。かといって「じゃあやめた」と言えるほど簡単ではないらしい。まるで戦争末期の日本帝国の負け戦のようにも見えてきますが、少なくともいま明らかなのは、戦線はすでに大きく突破されているので、いよいよちがう戦略が要るということじゃないでしょうか。感受性のある若い人たちが、この難局に、どういうアイデアをもって対応していくのかいま注目しているところです。

・最近は、自分のメディアは自分でつくるという人たちや、仕事以外で活動する小さなグループが自分のまわりにいくつか存在しうる状態になっているのではないでしょうか。それらがうまく連動すれば、表の社会とは別に、もう一つのちがう社会を作り出すことができるかもしれませんね。表の社会の中枢を変革するというのは、もうほとんど無理ですし、いつまでも待ってはいられないでしょう。根本的に考え方を切り替える必要がある。ではどう変えるのか。そこからは難しいですけど、人類の繁栄を前提にするといったきれいごとから始めるのではなく、反対に、滅亡を前提としてそこから考えてみるとか、です。いままでブラックユーモアで言われていたことが現実味を帯びてきていると思います。

・でも、個人的には、むしろ、目立たないささやかなくらいの小さな動きに関心を持っています。若い世代に期待するというような楽観性は少しも持ち合わせていませんが、でも、表の社会に出てくるものにはまったく興味もないし期待もしていないと思っている人が、若い世代に急に増えてきているような気がしませんか。金は入るけどつまらない、あるいは、面白いけど金は入らないということは、いまではごく当然のことだという感じではないでしょうか。食えなくなってしまうのは困るけど、でも、ときどきは、儲からなくても面白いことをやりたい、という二重生活状態がだんだん普通になりつつあるような気がします。建築ではまだ分かりませんが、映画や音楽ではよく見かけます。ここで特徴的なことは、自分たちのやっていることをあえてマス・メディアに無自覚に流出させないという抑制を知っているということです。広まれば広まるほどいいとはまったく思っていない。いままでとはちがう経済学が働いています。しかも、面白いものは、ぼくの見るかぎりですが、まちがいなくそこからしか出てこない。
そのときに、古いものに目を向ける、というのは手続きとしてはあるのだと思います。しかし、古いものへの接し方はぼくたちの世代とは相当ちがうでしょうね。現代は、古いものも新しいものも時間差なく、いわば、ごちゃごちゃに並列するようになった時代ですから。

加藤典洋

・(「縄文的なるもの」や「豆腐」の文章は)つまり、伝統についてここまで始原に向け遡及して考えなければ、「原爆堂」のような未来永劫まで続くものは構想できない。もしこういうものを日本という場所で、原爆を落とされたという経験がある中で、世界の未来の祈念に向けて構想しようというのであれば、それを支える自己省察、おのれの文化の源泉への態度は、どのように深く厚いものでなければならないか。そういうことを、明らかに白井晟一は頭に置いて書いています。

・「ガウディの聖堂」という文章では、「創造的な造形の最も高い基準は、聖と俗の融合であった」と書かれています。こういう言葉から感じられるのも、白井晟一の強力な美についての考え方です。ふつう、建築家は美術家に比べて「俗」の世界に近いところに生きていると考えられています。施主の要求は拒めない。何しろ作品をつくるのに、お金がかかるからです。しかし、「豆腐」ではなぎあ、美は「用」の中でこそ生きる。見るだけの絵画と、人がそこに住み、それを使うことで接する建築と、どちらに「創造的な造形」の可能性があるか。むしろ「聖と俗」のダイナミックな融合の場であり得る建築にこそ、大いなる可能性があると白井晟一は考えているのではないでしょうか。

・ぼくは最近、幕末期の思想経験に関心を持つようになりました。明治維新を可能にした尊王攘夷思想というのは極めて問題の多い思想なのですが、この日本社会でただ一つ革命をもたらすことのできた思想です。これについて、なぜそういう力があったのか、考えてみようと思ったのです。そしてもう一つの動機が戦争です。皇国思想という日本社会を戦争に向けて動かした思想は、その大本の幕末の尊皇攘夷思想のほうからでないと、心底批判し否定するということはできないのではないかと思うののです。両者のちがいは、民衆性というか、その思想の基盤に「地べたの普遍性」とも言うべきものがあるかないか、ということです。幕末の尊王攘夷思想は、このままいけば開国を理由に植民地にされてしまう、でもそれはおかしい、不当だ、理不尽だ、と誰もがおなじ境遇に置かれたらそう感じるだろうという「普遍性」を備えていました。テロリズムの思想だとしても、そういう基盤があった。それがぼくのいう「地べたの普遍性」ですが、天孫民族の優越感に立って八紘一宇を説く第二次世界大戦下の皇国思想に、それはありません。それは、どこも民衆の足場を持っていない。天皇という天空の価値から宙づりされた思想だったのです。では戦後はどうでしょうか。ぼくの目にはいま、戦後民主主義や護憲論は、そのような宙空性という点で、むしろ皇国思想と似たところがあると見ています。世界に冠たる万世一系天皇が、世界に冠たる戦争放棄平和憲法へと、そのまますり替わったというか。そういうところに多くの人が無自覚なのは困ると思っています。しかし、戦後の平和主義は、それだけに支えられてきたのではないのですね。それは国民一人ひとりの戦争体験にも裏打ちされていました。そしてこの国民の戦争体験について、ぼくはいま、日本社会が古代以来、幕末の危機意識に次いで二番目に持った民衆に広く共有された「地べたの普遍性」だったのではないか、と考えているところなのです。


・この前の戦争では310万人が日本で亡くなりました。ということは、3000万人から4000万人もの人が自分の身近な人間に死なれているということです。当時日本の人口は7000万人だったので、ほとんど半数がそういう目に遭っていたことになります。自分の身近な人に死なれて、それも戦争なんかで死なれたら、その後の人生はもうない。そう思います。とはいえ、その苦しい体験から生まれる無念は生きている限り、その生き残った人を動かします。白井晟一はそういうものをちゃんと受け止めることができる人間だった。また、そういう建築家でもあったと思います。
それが、なぜ原爆という人類史的な惨禍を経験した社会から、それを受け止めた建築計画が、かれ以外からは出てこなかったのか、ということのもう一つの答えでしょう。
白井晟一は、そういう意味では日本の戦争を建築家として背負おうとしたものだとも言えます。

白井晟一はいろんなものごとを、そのダイナミズムの中で、本当に生きたかたちで考えていた人だと思います。伊豆韮山の江川邸、「豆腐」、「めし」と次々に予想をはるかに超えた地点に意想外なものを例示する。その迫力に圧倒されました。