読書めも〜『「学ぶ」ということの意味』〜

「学ぶ」ということの意味(佐伯 胖著/岩波書店/1995)

 

・学ぶということは、予想の次元ではなく、むしろ希望の次元に生きることではないだろうか。「こういうことが、いついつまでにできるようになる」ことを目的とするのではなく、いつどうなるか、何が起こるかの予想を超えて、ともかくよくなることへの信頼と希望の中で、一瞬一瞬を大切にして、今を生きるということのように思える。子どもがよく学ぶとしたら、それは希望の次元に生きているからであろう。また、大人が学べないとしたら、それは大人の世界に、希望の次元が喪失しているからである。

 

・「学習内容」を外から勝手にきめて、それが何がなんでも「自ら進んで、意欲的に、興味・関心をもって」取り組ませるのはどうしたらいいか、という話はもともと無理な注文だというしかない。さらに本当の自分探しをしている子どもの立場からいえば、これは「なりたくない自分にならされる」恐怖、本当の自分でない「ウソの自分」をつくらされるという恐怖をもたらしかねない話である。

 

・人はつねに、他者とともに学ぶ存在である

ということである。

このことの意味はきわめて深く、おそらく、学ぶということの最も根源的な特徴でないかと思われる。このことの意味をていねいにさぐっていけば、ヒーリー学級の子どもたちが学んだ、(1)自分の役割の創出、(2)自分のため・共同体のための学び、(3)個人的納得の公共化、(4)学びの歴史化・文化化、などが、本来の学びというものから導かれる必然的な結果であって、けっしてヒーリー学級だけの特殊な結果でないことがわかるのではないだろうか。

 

・ここでいう二人称的他者こそが、学び手が出会う「師」というものであろう。実際に学校の「先生」である場合もあるが、そうでないこともある。親かもしれないし、友人かもしれないし、恋人かもしれない。あるいは、書物の中の人物かもしれないし、歴史上の過去の人かもしれない。大切なことは、対話的な交流をもつことができて、内的対話(吟味・評価・批判・反省など)を豊かにし、学びがいのある学びに導いてくれる存在であるということである。

人はそういう、幸いな出会いを通して、「学びがい」を見つけ、「なってよかった、本当の私」になっていく

 

・本当のYOU的関わりというのは、もう一つ「外の世界」(THEY)と対峙していく、つまり第二接面での交流を行き先として常に意識し、見つめていながら、互いが安心してうちとけるのが理想である。つまり、みんなが「お互い」を見つめ合うのではなく、「外」をともに見つめるという関係で、はじめて本来のYOU的世界がつくり出せるのだ。

他方、教師があまりにも「外の世界」をそのまま持ち込もうとすると(つまり、第二接面を強調しすぎると)、今度は、話は立派でごもっともでも、子どもは自分とはカンケイナイこととして、そこからさっさと逃げる。つまり、世間的な評価から見て「これはよい授業のはずだ」というものを「外」から持ち込もうとしても、子どもとのひそやかな対話(第一接面)を無視したのではうまくいかない。つまり、子ども独自のこだわりとか素朴な実感、まちがっていいという安心感、ひそかな自分流のやりくちなどなどが、暖かく受け入れるYOU世界がないかぎり、子どもの学びはおいてきぼりになる。

・「正しさ」や「効率」がすべてに優先し、最終的な完成品だけが評価される。ムダや遊びが排除され、素朴に楽しみ、喜び合うこと、未熟さの中に潜む原初的なエネルギーの発現などが失われる。

・このように、「教える」ことというのは、どこまでも子どもの「学び」につきあうことであり、子どもの自我形成(自分づくり)を助けることである。子どもが「なってよかった、私」になってもらうべく、働きかける存在である。ここに至っては、もはや教えと学びのディレンマはなく、学びと教えは表裏一体となる。

 

・教師が子どもに対して適切な第二接面をもっているか、ということである。すなわち、教師自身がつねに学びつづけており、現実の文化的実践に深く関与していて、それらの価値・意義・大切さを子どもたちにかいま見させる力量を身につけているか、ということである。子どもにとって「未知」(子どものの自我に恐れをいだかせるものではない)でありつづけ、学校以外での学問・芸術・文芸の豊かな世界に触れていて、「こんなにすばらしい世界である」ことを子どもたちにいつかわわかってほしいという「熱い思い」を持っているか、ということである。

・どんなに優れた教師、優れた教材があっても、一人ひとりの子どもの「自分さがし」は、原則的にはその子ども本人の自己内対話の営みであり、他者がそこに権力的に介入してはいけない世界である。

私たちにできることは、つねに子どもの側にいて、幸いにして子どもの「二人称他者」になれるのを待つことしかない。それには、なんと言っても、私たち自身が、一人ひとりの子どもを「二人称他者」として見ることからはじめるべきである。子どもはすばらしさに感動し、その豊かさで柔軟で新鮮な感受性の中に、「なってみたい、私」の姿を描き出すことである。

・さらに、私たちはつねに「外の世界」に触れて、多様で豊かな文化的実践に触れ、一人ひとりの子どもに即して、文化として、社会として「なってほしい、子ども」を、たえず問い直し、一面的なものになっていないか、自分なりの勝手なイメージの押しつけになっていないかを、実践の共同体の営みの中で反省し、問いかけていかねばならない。

・私たちの世界は、「大人の世界」と「子どもの世界」に二分されているわけではなく、みんな「ともに生きている」のである。一緒に住み、一緒に食べ、一緒に生活しているのだ。そこでは子どもが大人から学ぶのと同じように、大人も子どもから学んでいるのだ。

 

・「人」というのが、まさしく意図をもち、自分とは異なる世界を見ている存在であり、その「見ている」ものを自分の心の中で、その人の身になって、その人の「内側」から見ることができる存在であることに気づく。これがそもそも言語的コミュニケーションのはじまりである。

言語的コミュニケーションとはそのような「人の内側に入って、その人の見える世界を想定した上で、その見える世界を変え、今自分の見ている世界をその人に見せようとする」営みだ、といえる。

 

・文化をつくり出し、それを発展させていく人類が他の動物と決定的に異なっているのは、「他をまねる」能力にあるわけではなく、むしろ「他をまねる」能力を積極的に生かして他者とコミュニケーションをもち、協力し、共同で何かをやりとげる能力にまで高めることにある、とするトマセロの議論には、説得力がある。

 

・もしも動機や意図というのが日常会話の中心にはなく、行動の「結果」だけが問題にされる関係ーまさしくTHEY的な関係ーの中で子どもが育ったならば、やはり子どもの学習はトマセロたちのいう文化的学習には発展しないだろう。そうなると、子どもはおびえて、意図や意味がわからない「形だけのまね」(いわゆる「サルまね」)にとどまり、必死で親に従おうとするが、ことごとくはねつけられるため、自我は萎縮し、学びは停滞する

 

・もしも古参者たちが新参者の参入を嫌い、新しい行動様式の導入を嫌い、見知らぬ他者の「内側」になんら関心をもたない社会だったならば、子どもがそういう共同体と接触しても、共同的学習を進めることはできず、結果的に文化的営みは実現しないことは明らかである

・人は道具の形態を「加工」することで、使用者の目的により的確に合致するものに洗練させていくことができるし、また、他者はその「加工の痕」から、使用法が道具の重要特性を「読みとる」ことができるために、最初の発明者から時間的空間的に、はるかにはなれたところの他の集団にも「意図がつたわる」のである。そしてその「加工の痕」は、文字と同様、はっきりと「残る」ので、そこに「歴史」がつくられるのである。


・「(モノに)なってみる」ことによる理解というのは、「知識」が得られるということよりも、結局は「自分が変わる」ということである。新しい自分として、世界を新しく、今までと違う別の(より本当の)自分との関わりで見直し、また、新しく関わり合う、ということなのだ。

・「なってみる」ことによる学びを善元(幸夫)氏よりも、もっと積極的に意識的に実践しているのが鳥山敏子氏である。その授業は、「花の種になる」「根っこになる」「たまごになる」「コアセルベート(半液体の膠質ゲルの有機物で、外から物質を取り込んで内部で化学反応をし、出来上がった物質を排出するという、地球の歴史の中で生命誕生前の海洋水の中にあったとされる、生命活動にきわめて近い「代謝」する物資)になる」「両親類になる」「恐竜になる」などなど、数えきれない。
・しかし、鳥山氏の実践は、べつだん「なってみる」ことだけを主眼とするものではなく、むしろ、私たちが自分のからだを世界に向けて正直に「ひらく」ことを中心においた教育実践を進めているわけである。(中略)鳥山氏の場合、さらにそれをもう一度自分の中で、「本当の自分」と対決させることで、他者(他物)の理解と自分自身の理解とを同時にたちあがらせるのである。その上で、あらためて、相手と自分との「本当の関係」をしっかりつくり出そうというしだいである。たんなるセンチメンタルな「共感」ではなく、違うなら違う、いやならいや、同じなら同じ、好きなら好き、きらいならきらい、という「自分の深いところにある本当の思い」を明らかにした上で、相手との対等の、いつわりのない関係を構築していこうとするのである。
この段階は、ワロンのいう「拒絶の段階」をあえて意識的に経由させる試みといってもよいだろう。
・鳥山氏の実践は、このように、他者ときちんと向かい合う「からだづくりと、そういうプロセスでの「ことばづくり」を同時に、しかもその二つを「一つの活動」として実践し、そのことを通して、結局は「自分自身ときちんと向かい合う」ことができるようにしむけていく「学ぶからだ」育ての実践である。これはまた同時に、徹底した「自分探し」としての学びを子どもの中に(当然、鳥山氏自身の中にも)確立させることでもある。

・「わかった」ということは、それだけで、その人の作品なのだ。それは、その人の、ほかの人の「わかり」への呼びかけであり、贈り物でもある。また「わかった」ということは、わかり合う人々への仲間入りであり、価値の共有への参入なのだ。
文化というは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれているのである。
もしも「わかる」(むしろ、理解=感謝appriciation)という世界がなく、すべて人はつくり出すか、消費するだけだとしたら、これはもう文化でもなんでもない。たんに食物連鎖の一環にはまっている生物の、「食べるか、食べられるか」の生活の延長であるにすぎない。
むしろ人間は、文化の営みに中で、わかり合うことで生きており、生活しているのだ。

・私たちが「学び」と呼ぶ参加は、文化的実践への参加である。すなわち、関係づくりが集団の内側の規範に向かうのではなく、集団の外側(文化的・社会的実践の場)に向かうのである。
ところで、関係づくりが集団の内側に向かうとき、とくにその規範の維持に向かうとき、そこにある成員関係は先に述べたとおり権力関係(従わせる側と従う側)しかない。
しかし関係づくりが集団の外側(文化的・社会的実践の場)に向かうとき、集団の成員間は、先輩・後輩のちがいはあっても、基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。先輩はその活動がより本格的なものになるので、それだけ権威ある存在ではあるが、一方的な権力を行使するわけではない。当然そこには互いからの学び合いがあり、後輩は先輩から、先輩は後輩から学ぶのである。「外」にある真正の文化的実践にともに向かっているとき、互いの関係は権力関係ではなく、YOU的関係になり、協同的関係になる。(中略)つまり実践の協同体とは、成員の主たる活動が集団内の規範維持よりは、集団の外の、文化的・社会的実践に向けて、「よりよいもの」を産み出すべく、協同的活動に従事している共同体を指すのである。

・「学ぶ」ということは、つねに「私が知る」という、この「私」レベルでの営みだということである。人間には感情とか認知機能とかがあるにしても、やはり「私は、私であり、私以外のなにものでもない」ということである。学びに関与するのは、そのレベルでの、この「私」である。
・(本書では)「学力」とか「能力」とか「適応力」といったものについても、また「自発性」とか、「積極性」というようなものについてさえも、これらすべての従来「◯◯力」と呼ばれてきたものについて、行為主体自身が「もっている」力、あるいは頭や心の仕組みや属性に帰属させる考え方を否定するのである。すなわち、これらは当人とその周辺の人々、さらにそれをとりまく世界との関係の中で、特有の形で「たち現れる」行動特性なのだ、という考え方をするのである。このような考え方を「関係論的視点」と呼ぶ。
関係論的視点とは、従来、個人が「所有」ないし「獲得」しているとされていた能力や性格特性について、その個人が「今、そのときの」社会的な関係、文化的な関係、歴史的な関係の中で、また、それらとの関係づくりとして生きているあり方であることを重視し、そういう能力や特性を「目立たせる」関係構造を明らかにしようという立場をとっている。
・「自己教育力を育てる」研究とは、学び手の視点に立って、その意味世界を解明し、その中で「自己教育力の発揮を促す」学習環境を明らかにしたり、「自己教育力の発揮をさまたげている関係」を明らかにして、それを改善する道を探る、とううものでなければならない。
・本書では、くりかえし学びを文化的実践への参加であるとした。ところで、「文化的実践」とはどういうことだろうか。
・この共同体がなんとかして以前より「よくなろう」として、協同的に関係づくりや関係の再構築、あるいは関係の修正を模索して行う実践の総体を「文化的実践」と呼ぶのである。それをあえて「文化的」と呼ぶのは、さきのトマセロの文化的学習の際と同様に、「元へもどらない」こと、共同体の「協同的な営み」であること、さらに「広がり、伝播し、継承される」ことなどを指標にすることができるからである。
・ただしここで注意したいことは、共同体の「よくなろう」とする実践、そしてその結果が「よりよい」(元へ戻らない)状態の実現だという場合、その「よさ」が何か絶対的な基準に照らしての「よさ」とはかぎらない、ということである。(中略)(このことは、今日のような石油の使用や自動車にたよる社会は「元へもどらない」が、公害や地球資源の枯渇などの新しい問題を産み出したからといって、石油の使用や自動車の普及は「文化的でなかった」とはいえない、ということである)。

・今日の近代社会の中で、YOU世界はどんどんTHEY化されつつある。最近のマルチメディア技術の普及が、THEY的にウケる映像や情報を垂れ流し、人々のパーソナルで、YOU的なコミュニケーションを持とうとする共同体を破壊しつつある。理解が「情報の受信」以上のものでなくなり、感謝・賞味し、「よい」ことを生きた他者と共有しあう営みであることが失われている。どうでもよいささいなこと、人間の原点に関わる重要なことが、「普及」してしまえばみな「同じ」になる。「なってみたい私」探しの旅がはじまる前に、マスコミが、受験体制が、「みんな、こうなるのがいいのだ」という平板なイメージを押しつけてくる。それに駆り立てられるうちに、「この私」というレベルでの「自分探し」を見失ってしまうのである。
勉強は氾濫するが、学びが失われる。それは「希望」が失われることでもある。
本書は、こういう時代にこそ、学びを回復すること、すなわち、私たちが将来に希望をとりもどすことが大切であることを訴えようとするものである。
私たちがもう一度、学びなおすために。