不良

最後に起きてきた息子と遅い朝食をとっている。妻と娘たちはピアノ教室で先にでかけた。昨日の残りの豚しょうが焼き丼。

今日の会話は学校で先生に怒られたという話で、「本を読むな」と言われたそうだ。

聞けば息子がいう「すきま時間」に、学校の図書室で借りた本をちょこちょこ出しては読んでいたのだという。

何が悪いのかいまいちわからないが、話を聞いていくうちにそれは授業中で、他の当てられた子が黒板に発表のために計算式を書いている間が暇で、そこを「すきま時間」と息子は位置づけ、机から本を取り出して読んで時間を潰していたようだ。それを先生は「授業中はけしからん」とたしなめた。

面談にいったとき、担任の先生の印象はベテラン然としてすごく寛容で優しい印象で、これは任せられると思った。そして板書の字がキレイだから、息子にもいい影響があるといいなと期待していた。

あの担任の先生が注意するくらいなのだから、よほど腹に据えかねるくらい目障りだったのだろう。親として申し訳ない気持ちになる。算数であれば「他の解き方があるかもしれない」とか、いろいろ考えることがあるだろう、とのご指導。ごもっとも。

が、息子の気持ちもわからなくもない。日頃から息子には人生に与えられた時間は限れれているから無駄にするな、といいきかせているから、彼なりに有意義にしようとしたのかもしれない。ややこしくなるから、無駄に思えることが意味があるという議論はいまは横においておく。

先生のいうように別解を考える、それが優等生かもしれない。でも、息子にしたら、とにかく今読みたい本が手元にあるので、読まずにおられないのである。『読書をしましょう』と散々学年通信やら図書館だよりに書いてあるではないか。この好奇心は授業じゃ教えられない。抑えたら損だ。ちなみに、その本はスポーツの歴代珍プレー伝説を物語ったもの。昨晩「こんな珍プレーあったんだよ」とたくさん話をしてくれた。

我が身を振り返れば、授業中に他のことをしていたり、全く関係のないことに思いを巡らせていたり、生長期のときは寝ていたり、いろいろしていた。偉そうなことは言えない。

てなわけで、じゃぁそのすき間時間をどう埋めたら怒られないかを一緒に考えた。例えば宿題をするというのはどうだ。それには算数の時間に漢字ドリルを机の上においたり、それはそれで怒られるだろう。

そこで、ノートに板書をもう一回、丁寧に書き写すということはどうかと提案した。クラスで最も字が汚いであろう息子、先生の字を習えばよい。同じ内容を二回繰り返し書いていても、怒られることはあるまい。

「ほうほう」とそれはナイスアイデアというように息子にもすんなり入ったようだ。

さてどうなるかな。

「とんだ不良少年やな、お前」というとへへへと笑っていた。

「本、好きすぎや」と先生から揶揄されたようだが、それは勲章だとおもえばよい。

本は人生の栄養だ。