バトン

今日は娘二人は妻とプールへ行き、ぼくは息子と過ごした。

朝はぼくが洗濯やら掃除やら家事をやっている間に彼は宿題をして、そのあと一緒に近くの大学図書館にいった。そこにはワンピースがあって、1巻から読み始める。ゲラゲラ笑いながら読み、笑ったところを「ねえ父ちゃん」といっていちいち席を立って、その場面を読み上げる。それを幾度となく繰り返す。

お腹が空いたというので、近くのデパートに行ってパンを買く。今朝友だちの家で仕入れた情報で、そのデパートのゲームセンターに行けばドラゴンボールのカードがもらえるというので寄ると本当にそうで、うれしそうだ。車でパンを食べながら、友だちと試合をすると約束をした時間にサッカーコートへ連れていく。友だちはいるが、全員はそろわず試合はおあずけ。しばらく友だちと遊んで、その後また図書館へ行って、ワンピースの続きを読む。図書館は17時に閉館。一度家に戻って、その後サッカースクールへ。

サッカーの試合は先週もあった。先週は友だちが数人、「試合の前に、練習しようぜ」と家に呼びにきてくれた。試合は10−5で負けたそうだが、自分はハットトリックを決めたと満足そうだった。

今日は図書館に行くから、友だちが先週のように事前に家に来てしまうと彼らは無駄足になる。朝そのことに気づいた息子は、「どうしようか」と悩み、「その友だちの家にいって、そのことを伝えてきたら?」とぼくがいうと「わかった」と宿題を終えたらとの友だちの家にブレードボードに乗りながら向かった。

帰ってきて、どうだったか訊くと、「いなかった」そうだ。お母さんはいたらしい。「じゃ、『家に来てもいないから、サッカーコートで待ち合わせね』とか、お母さんに伝えた?」

「いや、いってない。」

「いえばよかったやん。友だち、家に来ちゃうかもよ」

「そやね。」

「もう一回、行ったら?」

「うん。」

といって、またブレードボードでいそいそとその友だちの家に再び向かう。携帯電話がある時代、この伝書鳩的な伝え方、しかも2回もというのは大人だと面倒に感じるけど、彼の表情を見ていたら「面倒だ」という感じはまったくない。親に「電話で伝えてや」ともいわない。そのあたり、この息子はアナログに生きていて、今しかできない贅沢なスタイルに思えて実にうらやましい。帰ってきて、ちゃんと伝えたそうで満足げである。

出かけるときも、梅ジュースを自分で作って水筒に入れる。冷蔵庫の氷が切れていて、ぬるいのが気に食わなかったみたいで、やっぱり氷を入れたいから一度家に寄ってくれといったり。

パン屋でも何を食べたいか自分で選んだり。

サッカースクールではシュートの力がコーチの手が痛いくらい強くなったそうでコーチがびっくりしていた。

どんどんお兄ちゃんになる。何気ない、他愛のないことだけど、自分の意志で行動するようになって、父が「いろいろやってあげる」出番は少なくなっている。もはやアッシー君でしかない。

音楽を聴くために車につないだ昔のiPhoneの壁紙は、彼が3歳くらいのときのもので、信号待ちのときにたまに視界に入ってくる。もうこの小さくて、か弱くて、愛くるしい彼はいない。たくましくなった、小学4年のお兄ちゃんである。

今のぼくの生活は子育てを最優先にして、彼らと毎日触れ合っている身でありながら、それでも、子どもの成長が早くてびっくりするものだ。娘たちの寝顔をみていても思うけど、昨日と今日の顔が、違う。同じである時がない。

「今日の我が子よ、さようなら。」という気分になるときがある。明日はまた「新しい我が子よ、こんにちは」という気分だ。だから、この日々に飽きることがないし、1日1日が過ぎていくのが、惜しい。もう今の瞬間の子どもには、会えないのだから。回転寿司が、もしも1回きりしか回ってこないとなると、急に貴重なものに思えて吟味しだすだろう。それと同じことで、この日々はかけがえいのないものだと、つくづくに思う。

そして、実は自分も1日として同じ日はない。忘れているだけで、死に近づいて歩いている。命はバトンなのである。ぼくの1日が、彼らの各1日、のべ3日になって、命がつながっている。そう思うと、親になったことに感謝し、嬉しくて、そして、老いることが怖くなくなる。ぼくの成長が止まったとしても、彼らがその分、伸びてくれればよいのだから。