キッチリ大学

大雑把にいうと、人間にはふたつのスタイルがあって、キッチリとザックリという二つがある。我が家ではキッチリ大学かザックリ大学と呼んでいる。我が家の場合、ぼくは完全にザックリ大学である。家事をやるようになって、それこそ多少はキッチリの授業もとるようになったが、キッチリ大学に入学しようものなら最下位である。

昨日も完璧に家事をすべてこなしたと思いきや、息子に代わりにやっといてあげると名乗り出た学童のリュックサックを学童に預けておくという作業を完全にしわすれた。おかげで息子は学童についても着替えがなく、いたく困ったそうだ。迎えにいったとき、「おまえ、なんで着替えてないんや」といったら「父ちゃんが忘れたんやろ」と返り討ちになった始末。

一昨日も完璧にやったと思ったら、何かをしわすれて悔しい思いをした。何をし忘れたかも忘れた。そういう男が今は仕事では事務屋をやるはめになっているから本人も周囲も日々情けなくて苦しくて、窒息して死にそうになっている。子どもたちにはこういう根本的なミスマッチはしてほしくない。ザックリ大学は社会では役に立つ環境が限られている。特に日本で、若手の時代は。

妻はどちらかというと、キッチリ大学のようである。でも、ぼくと暮らすことを許容できているのだから、そこまでネジは固く締まっていない。

息子は完全にぼくの血をそのまま引き継いでいる。字が汚い分、ぼくよりもひどいかもしれない。「だいたい」の世界に生きるのが心地よさそうだ。だから手に取るように考えていることがわかるし、馬があう。

長女もキッチリと思いきや、わりとザックリしている。料理のとき、野菜の大胆な切り方や鍋への入れ方をみたらそうだ。部屋を片付けるときも「だいたい」だ。

そこへきて次女である。だれの血か疑うくらい、彼女はキッチリ系のようだ。例えば、昨日デラウエアを食べていたとき、食べたあとの皮を一つ一つ、お皿に円環状に並べはじめた。「そのほうが、きれいかなと思って。」結局はたくさん食べるから、皿は埋め尽くされて山盛りになるのだけど、途中までは確かに綺麗だった。

お風呂にはいるときも、脱いだ服は端を揃えてきちっとたたむ。洗濯カゴにポーン、ではない。

お風呂の中でも、泡がでるボディソープ、自分で洗ってみなといったら、泡をだし、それを点々と身体に紋のように少しずつつけはじめた。どこかの民族のように白い泡の斑点が半身を埋め尽くしている。妙な迫力がある。

「そのほうが、きれいかなとおもって。」

きれいだけど、身体はきれいにならないね、といったらバーっと躊躇なくアワアワをつぶして洗い流していた。

保育園では連絡帳を並べる係になったときも、キチッと同じ幅で並んだ列にして先生が感嘆の声をあげたようだ。

誰に似るでもなく、この我が家からこういう気質の子が出るのは不思議だけど、面白いので見守ることにする。周囲から「きれい」と言われるのも嬉しいのだろう。自分とは違った育ち方をするのも、これまた楽しみなのである。

次の「そのほうがきれいかなと思って」がまた聞きたい。