10歳

息子がついに10歳になった。親になってから10年ということでもある。この子のおかげで、ずいぶんこの10年で人間が変わった。自分の人生がどうでもよくなったといえば言い過ぎだけど、それまでほど執着はなくなって、子どもの未来に主眼が向くようになった。飽きっぽいぼくは、10年続けていることは親、以外にない。こればっかりは飽きないから不思議だ。

たぶん、死ぬ前に特別な日はいつだったかと訊かれたら2008年5月22日をあげるだろう。長女と次女の誕生日も同じように嬉しいことに違いないが、親になったというのは自分の人生を二つにわけられたといっても過言ではない。

子どもの誕生日は自分の誕生日より嬉しいものだ。珍しく朝は6時半にパっと起きれた。まだ寝ている息子に待ちきれずオメデトウという。

夕日が沈む頃、家に帰るとまだ息子は公園で友だちと遊んでいた。妻がおからハンバーグをつくっている。ぼくは帰りにスーパーに寄ってガンドブリの刺し身を買う。どちらも息子が好きなものだ。ホールケーキも買ってある。

息子が帰ってきたら宿題をちょっとやり、みんなでご飯を食べる。いつものように本を読んでいるから会話はない。今日はドラえもんを呼んでいる。amazon musicでHappy Birthdayと検索したらいろんな歌が流れてきた。長女と次女がむしろ喜んでいる。

ご飯を食べ終わった頃、ケーキの準備をする頃に紙の王冠を息子にかぶせる。長女がハッピーバースデーの曲は私がピアノを弾くといって準備する。ロウソクをつけ、長女の伴奏で妻と次女とぼくで歌いはじめるとあまり普段はみない神妙な面持ちで歌を聞き入っている。彼なりの嬉しさの受け止め方なのだろう。

歌い終わるとケーキを一息で消す。長女がそそくさと階段の下から隠しておいた手紙を持ってきて息子に渡す。「ありがと」と素直に受け取る。「いつも優しくしてくれてありがとう。好きな食べ物はなんですか」と書いてあるらしい。

読んだ息子に、「好きな食べ物、答えなよ。」というと、長女が「『今度教えてね』って書いたから」とフォローする。長女は息子の隣を陣取って兄の隣で食べてる、と嬉しそうだ。次女が「私もフーってやりたい」と言い出すのでもう一度1本だけ火をつけてやらせてやる。写真をとると、次女も息子の腕にしがみついている。慕われているようで嬉しくなる。

みんなで息子が生まれた頃のビデオを見返す。息子も10年前の自分を興味深そうにみている。

学校でも担任の先生から「おめでとう」と言われたそうだ。なんで先生が知っているかというと友だちが先生に伝えたらしい。その友だちには「おれ、今日誕生日ねん」と息子からいったそうだ。

ゲゲゲの鬼太郎の本を読み始めたら、アニメも見たくなったようで見始めた。パーマンの時代は終わり、今は鬼太郎である。パーマンより鬼太郎の方が面白いの?と聞くと、

「うん。パーマンはパンチかキックをするくらいやろ。鬼太郎は毛を飛ばしたり、ちゃんちゃんことか、下駄とかいろいろできるから。」と返ってくる。

誕生日プレゼントはまだ買っていない。オパールとメノオという鉱石を今度買いにいく。

月並みだけど、この5人が、それぞれ元気に生きて、この世界を楽しんでくれれば、それ以上言うことはない。しみじみそう思う。香山先生はこないだ「いまの時代、次々新しいものが生み出されるけど、幸せに生きるのに、人間はそんなに多くのことを必要としないんだよね。」とおっしゃった。あの言葉を思い返す。

これまでの10年も大きな成長だったけど、これからの10年も随分変わるだろう。ただ、もうこれからの10年は親の影は薄くなり、自動操縦に切り替わる。ハンマー投げでいったら手を離すタイミングが近い。これまでの10年はこれからの10年のために親が目まぐるしく周り、遠心力を効かせてブンブン振り回し続けているようなものだ。手を離れたらあとは叫ぶくらいしかできない。

なるべくこれからは「やりなさい」とか、「やめなさい」と押し付ける言い方は避けたい。価値観を押し付けない。自分で判断するようにしてあげたい。そうしないと、ハンマーに翼が生えない。親が間違ったタイミングで手を離しても、翼があればファールにならない。

ぼくが10歳の頃と確実に違うこと。息子はびっくりするくらい読書家になった。ぼくの母がみたら、きっと喜ぶ。ぼくは母に本を読めといわれて、読まなかった。ぼくは彼にいったことはない。得てして、そういうものだ。

母はぼくに「クオレ」という本を買って勧めてきた。ずーっと本棚にあったけど、マンガに行ったぼくはついぞ読まなかった。息子に、「そんなわけで『クオレ』、おまえが読んだらおばあちゃん喜ぶぞ」といってみた。図書館から借りてきたけど、まだ読んでいない。本は自分で手にとったものしか読まない。得てして、そういうものだ。