屋根の上

花粉が落ち着いたので、花粉症の妻に確認して久しぶりに外で布団を干せた。午後14時ころ。取り込んだら太陽の匂いがする。

この匂いを嗅ぐとぼくが少年だったとき、育った家の瓦屋根に干してあった布団に横になったときのことを思い出す。何の変哲もない建売の2階建ての家だった。周囲の住宅地には珍しい赤い瓦だった。

屋根には父の部屋の窓から出ることができた。それは父がいないということだ。緊張しないですむ時間だ。それだけで解放感がある。屋根に乗ると、踏むと瓦どおしがずれて、ギシギシ音がする。母の瓦がずれたら雨漏りになるから気をつけろという声がする。

前の道やお隣の家を見降ろすと、普段見慣れた風景にも新鮮な印象がある。地上からは見えない近くの山や、むこうのブロックの友だちの家も見える。布団はぬくぬくと温かくて気持ちがいい。少しだけうたた寝をする。自由を感じることができた貴重な時間。だからいまでも記憶に残っているのだろう。

父は仕事に行く日とそうでない日があって、週の半分くらいは家にいるような生活だった。当時では珍しく、新卒して就職した会社をすぐに辞めた彼は、プータロー、正確には浪人時代を経ていわゆる士業についた。詳しくは知らないが、ぼくはその過渡期に生まれたらしく、義理の両親、ぼくの祖父母とはいろいろあったようだ。

それでも父はフリーランスの風が吹いた働き方を貫いた。家族を養えるだけは稼いでいたし、仕事に対する責任感はものすごくあったと気付いたのはぼくが大人になってからだ。

母は学習塾をしていたから、平日と土曜日の夜は毎日仕事だった。学校から帰るとぼくは車に乗せられ、すぐ祖父母の家に預けられた。親と夕食をとるというのは日曜日だけだった。

そんな生活だから近所の子どもたちと日が沈むまで遊ぶということはなかった。一人っ子だったし、今思うと随分孤独な、とはいえそれが当たり前だったので寂しくはなかったが、ひとりでいることが多かった少年時代だった気がする。そして働くということに対してけっこう極端な手本が二つ、身近にあった。いや親代わりだった祖父もフリーランスな住職だったから、三つか。どうりでぼくは公務員の気質が肌に合わないわけだ。そして、自分でお金を稼いで家族を養った3人にはまだまだ劣等感がある。かなわない。

あの屋根は、親のテリトリーからちょいと抜けることができた逃避所でもあった。今の我が家に子どもにとってそんな空間はあるかな。息子にはそろそろ必要なのかもしれない。

あの太陽の匂いがかぎたくて、今日も布団を干す。