「臓器移植って、他人の心臓とかを自分にもってくるん?そんなことできるん?」と息子。養老孟司さんの『解剖学教室』の一節を読んでいる。
脳死になった人の心臓を切って、それを移植する人のところに移して、血管をつなげる。っていったって、どう血管を接合する?なんで血が漏れない?など興味深々。人体の図鑑をもってきて、心臓の血管を数え、この本数ならまぁ外せるかと納得したり。父ちゃん門外漢だけど、リアルに想像してみたら魔術のように思えてくる。
「臓器移植してもいい?」と尋ねたら、
「いやや」と即答。
「なんで?」
「だって、スッカスカになるやん」
「脳死だから、スッカスカになっても気づかんぞ、たぶん」
「まぁそうやけど」
「まぁ、おまえのドナーになる意思表示をしっていても、先立つのはオレだから意味はないのだけどね。だからオレの意思表示しておくわ。父ちゃんは、脳死になったら臓器移植していいぞ」
「そうなん?」
「そう。脳死になったらもうおまえたちともしゃべれんしな。それやったら臓器欲しい人にあげて役に立つならよっぽどその方がいいわ。臓器もらったひとも元気になるし、喜ぶやろ」
「脳死になったら、もう意識戻ることってないの?」
「た、たぶんね」
急に不安になる。戻れる可能性があるなら、臓器にも未練はある。
「きっと、ムリや」
ブレると息子も困るだろうから、迷いは消しておく。
移植のあとのドナーの身体は切り刻まれてるだろうから、普通の葬式とかにはならないのかな。まぁ本人としてはもう死んでいるわけだし、気にしない。
そんなやりとりをしたあと、妻の従兄が実はドナーになったんだよ、という話をする。妻の叔父さんが以前、「息子の眼はいまでも他の人の身体で今も生きている」と気丈にお話されていて、涙が出たことがある。そのとき、ドナーへの意識が変わった。
改めて息子にドナーになってもいいかを訊いてみたら、「うーん、わかんない」に変わっていた。『スッカスカ』はどこかにいったようだ。
「まぁ、その答えはおれが聞いても意味が無いからおいおい考えればいい。まぁ、父ちゃんの意志はお前が覚えておいて、何かあったら母ちゃんなりに言ってくれ」とお願いしたら「わかったよ」と軽く返ってきた。それでいい。万が一、そうなったらためらわなくてよい。臓器をあげた人が元気になったら、その人と仲良くなればいいさ。