20年前

今日はセンター試験らしい。ほろ苦い記憶が蘇る。20年前もこんな天気で曇天に雪がひたすら降っていた。行きは母の車で行って、帰りはバスだったかな。会場の入り口を入る光景をぼんやり覚えている。試験会場の教室の記憶とかあまりない。あのとき、学年で成績は後ろから数えたほうが早くてずっと劣等生で、全国どこの公立大学も入れませんと担任に言われて教育ママだった母親はショックで倒れそうになりながら帰ってきてた。同じバスケ部の友人たちはみんな成績がよかったら、テストの出来を話し合う輪に入れなかった。「おまえは友だちやけど、こと受験勉強になると別枠」という空気があって、そのテーマになると自然と居場所を変えた。夏に部活が終わってから、どんどん居場所がなくなっていった。成績も覚えていない。散々だったはず。英語か国語かで、試験時間がおわる寸前にマークシートの番号の並びを勘違いしていたことに気づいて、焦って消して書き直そうとするのだけど、やがてそれもアホくさくなり「こんな点数にしがみつくくらいなら、大学行くなってことだろう」と開き直った記憶だけある。

ひねくれてたし、とにかく異常なまでの反抗期で、価値を決めつけられることがいやで、あまり気にしていなかった。なんで受験をしたかというと、家をとくかく出たい一心だった。激しい夫婦喧嘩が毎日のようにあって、母の生きる希望であったぼくは人生を押し付けられているようで苦しかった。どこかに自分としっくりくる居場所があると都会に夢をみた。でも今思うとあの反抗のしかたも、所詮田舎者のごく普通の、ステレオタイプなものなのだけど。

奇しくもいまその大学の近くに居を構えるようになった。雪の山道を車で走ると、いやでも記憶が蘇ってくる。すぐそこの会場に行って、20年前のぼくと出会ったとしら、何と声をかけるだろう。そもそも、将来自分がこういう人になっていると知ったら、さぞがっかりするだろうしな、何をいっても聞く耳をもってくれない気がする。「おれはお前とは違う」とかいわれそうだ。それでも伝えたいことは二つ。

一つは「都会は楽しいぞ」ということ。おまえの直感はあっているから希望を持て。高校のときの孤独を恐れなかった頑固さがあったからこそ、その後も息の合う楽しい仲間とたくさん出会える。浪人して家を出て、求めていた自由を得るし、そこで心を入れ替えて自分の意志で楽しく勉強できるようになるし、もともと友だちは大事にするおまえだから、ここは心配しなくてよい。

そしてもう一つ。言っても無駄だとおもうけど、母は大事にしろということ。それをやりきらなかったから、おまえの気に食わない人生を、今のぼくは自ら進んで選んでおる。親からもらった恩を子どもに返すことを優先するという人生だ。もっとも、それでよかったと思っている。気づいていないか、そういうふりをしているとおもうけど、どこかでおまえは子どもがピリピリ緊張しないですむ、普通の両親に育てられる家庭というものに憧れている。そういうものの存在を信じたいはずで、それは全うしているつもり。そして、両親とも自営業で子どもを育てるという大変さ。特に家事も全部こなし、我が子の世話をし、ひとりで塾も切り盛りし、布団までいく力もなくリビングで倒れたように寝る。しかも睡眠時間は毎日数時間だけ。そんな母親の偉大さは、お前も親になればわかる。親の背中は20年たってもまだまだ遠いんだ。勉強はしなくていいから、自分のことは自分でやって、家事の一つでも手伝ってあげてくれ。

それでも、「うるせーよ」というだろうな、あいつは。先輩面しても、あの頃からぼくは、それほど変わってはいない。