焚き火とテレビ

1年間玄関のところに立てかけていた大きなヨシズがクタクタになったので、中庭で焚き火をして燃やすことにした。息子がヨシズを切って、ぼくが火をおこす。ときどき長女と次女が遊びにきてヨシズを火にいれる。息子がくたびれてきた頃に、ぼくがヨシズを切り刻む係、彼が火を維持する係。薪とちがって、ヨシズは燃えて灰になるまでが実に早いので、次々入れていかなくてはすぐに消える。寒くて風も強いが、火の近くだとコートを脱ぎたくなるくらい暖かい。ちょうどさつまいもがあったので、ホイル焼きにしたり、豚肉のスペアリブを焼いたり。

息子は友達も連れてきたいというので近所の友人宅に駆けていった。ひとり確保して一緒に帰ってくる。男の子は火にくいつく。長女と次女はしばらくして家の中に帰っていって、妻の手伝いで食材を運んだり食べたりすることのほうが楽しいようだ。

連れてきた息子の友人が火を見ながら最近テレビで見たニュースの話をする。ぼくと息子はそれを知らなくてへぇ〜とキョトンとしていると、その子は「そうか、お前の家、テレビなかったもんな」とサラッという。あまり蔑んだニュアンスはない。息子は「そうなんだよね」と少し残念そうに、決まりがわるそうにしながら「でもアマゾンビデオでドラえもんは見てるけどさ」とフォローしたように付け加える。自然と話題は別のテーマに移る。

我が家にテレビ回線が繋がっていないことは友だちの間でも周知の事実なんだな。ドラゴンボールを見に往復1時間かけて日曜日に別の友だちの家に通ってることも知られているのかな。特殊な家、と思われているのか心配になったけど、親が特にそう思うだけで、友人の間では仲間はずれという感じもなさそうだ。ほっとする。ぼくが子どもの頃ほど、クラスでテレビが話題の中心ということはもはやないのうだろう。どちらかというと「あれみてみたい、◯◯が言っていた」というのはyoutubeのコンテンツが多いし。テレビ番組も、ゴールデンで子ども向けはもはやないみたいだし。
ぼくのバスケについてくる彼は、帰りの車のなかで「世界ふしぎ発見」をみるのが好きで楽しみにしているし、もちろん日常ではお目にかかれないものに触れるいい番組だってある。ただ、継ぎ目なく関心を仰いで、なるべくダラダラ長くみせるように作られいるから、ほんとうに自分が関心があって、視たい番組かどうかがわからなくなる。「△△ベスト10」のように情報番組も単純化されて分かりやすいあまり、その背景だったり周辺のコンテクストだったりを緻密に多角的に、深く考えなくても大丈夫、という思考の習慣がついてしまう。画で見せられるから、それ以上想像をふくらませる必要がない。一方、言葉の海に浸ると想像を働かせなくてはいけなくて、自ずと世界が広がる。

祖父母との時間が長かったこともあって、ぼくは典型的なテレビっ子になった反動。子育てにおいて育てる側にとってもテレビは実に楽なツールでもあるのだ。なるべくそれには頼らないでおきたい。限りある時間を有意義に過ごし、能動的で想像力がある子に育ってほしいから。

パチパチなる燃えているヨシズの破片をイジイジしながら、そんなことを考える。雨も降ってきて息子もまた友だちとどっかに行き、結局ぼくだけになった。冷めた残りの焼き芋を食べる。