じゃあな

息子のサッカー教室で、ここ2年くらい、一番仲の良かった友達が辞めることになった。遠方から通っていて、家の近くのスクールにも通って掛け持ちしているくらいサッカーが熱心な子。リフティングが延々とできたり、技術は息子よりも随分先にいっている。教室には30人くらいいて、同じ小学校の子たちも多い。その友達とは小学校も違うのに、いつの間にか教室が終わったあと、居残りでキャッキャ二人で遊ぶようになっていた。波長が自然と合ったのだろう。最初の頃はぼくとその友達のお父さんも加わって、2対2で試合をヘトヘトになるまでやらされたり。

辞める理由はサッカーを辞めるのではなく、スクールを絞るのだそう。両校のサッカーのカリキュラムがすごく対照的で、両足と使う派と利き足だけを鍛える派の二つの方針で混乱をしていたらしい。これからは利き足だけを鍛える方針でいくそうだ。

サッカー教室の放課後が寂しくなるだけでなく、小学校も違えばもう会うチャンスはない。小学校の習い事の友達なんてそんなもんだ、と思いつつなんか寂しいので最後の回に手紙を書いたら?と息子にいったら「そうだね」と書き始めた。年賀状くらいやりとりしてもいいだろうということで、住所を書いて渡すことにした。

書けたというので見ると、「今日でもう会えんな。(住所)じゃあな。」という文面。短いし、実にドライである。その感想をそのまま伝えたらニヤニヤしている。自分でもそうだと思っているのだろう。シャイなのか。「サッカーがんばろうな」とか「また会おうな」くらい書けよと促すと「わかった」と追記している。それでも最後に「また会おうな」だけ。

「電話番号とかも父ちゃんしらんなら、もう会いようがないよね」

「おまえがまた会いたいなら、父ちゃん連絡先交換するけど。Jリーグでも一緒にみにいく?」

「そうだね」

教室が終わり、手紙を渡してお別れのときも、「じゃあな〜」といつもと変わらない。試合観戦でまた会えるしそんなに寂しくないと思っているのか、特に感慨に浸った様子はない。むしろ父ちゃんの方が感じてそうだ。

息子と自然と仲良くなってくれる子が世間に存在してくれること、そしてその子とであったご縁のありがたみ、これを本人がわかるにはまだ時間がかかるのだろう。

カラッとしている彼を尻目に、親子に大きな声でお礼とさようならをいう。

息子は東京からこっちに移住してくるとき、それまでの人間関係のほぼ全てである保育園の友達との別れを経験して、乗り越えている。当時ひとりだけ保育園を離れ、遠くの知らないところにいくことの戸惑いがあったのだろう、一時期チックになって、無意識にクビを振ったり手足をブラブラするようになって随分心配した。でもいつしかその所作は消え、いまはちゃんとこっちで根っこを生やし、日々を楽しんでくれている。

表に現れてないだけで、彼の中に寂しさがないわけではない。素直に手紙を書くように。ドライというより、「さよならだけが人生だ」のごとく、彼の中には「そんなもんだ」が刻まれていて、それを和らげる術を身に着けていると解釈するのが正しいのかもしれない。