次女の主張

次女がベラベラしゃべれるようになり、イヤイヤ期も終盤だとおもわれるけど、やっぱり大変なときは大変で、自己主張やワガママが激しいときがあって、でもそれが言葉でわかるようになったし、できるだけ対応してやりたいのだけど、限界があったり。

大雑把に彼女のワガママモードのときの主張を分類すると「私も◯◯(だいたいお姉ちゃんと)同じことをやりたい」系か、「自分でやる(から、勝手にするな)」系かの2種類。
長女を肩車していると「私も」といってダダをこねる。長女からすれば、自分がいいだしたのに、すぐに降ろされることになって我慢することになる。それもかわいそうなので、「順番、待ってね」といっても「はいわかりました」にはならない。しばしば、うっとうしい。いくら小さくてかわいい愛娘とはいえ、ちょっとうざいと感じるときもある。

 

朝、保育園に遅刻しそうなので、靴下と靴を履かせて、抱っこして車まで運んで、座席に座らせてシートベルトをするという一連のルーティンをやろうとすると、「自分でやる〜ウェーン」と怒り、泣かれたり。こちらはうっとうしいというより、追い詰められることが多い。シートベルトはできないのにいうもんだから、結局「できない〜」と泣くことはわかっているからもどかしい。

 

とはいえ、当たり前だけど、同じことしたい系は、それが楽しいことにみえるからで、楽しくないことはいわない。だから、それ系の発言が多いということは、それだけ楽しそうだということで、一つの楽しさバロメーターでもある。

自分でやりたい系も、積極的な姿勢と捉えたらすごく大事なことだし、やっぱりそれをやらせてあげるだけの時間と気持ちの余裕をつくってあげることが、いろいろ代わりにやってあげるよし、してあげなきゃいけないことなのだとおもう(でもそれが実にむつかしい)。

 

昨日、その余裕があって、ふらふら春の日差しを浴びながら近所を散歩。
肩車してあげているとき、「あ、鳥がいるよ」と教えたら「どこに?」と返ってきた。
ちゃんとキャッチボールになっているから驚く。成長したなとしみじみする。うれしい。

そういえば、お風呂で長女がぼくの背中を洗ってくれるときは「わたしも」は出ないな。寝床で長女がぼくを寝かしつけるときも、「わたしも」ではなく「ママと」になるな。ここはなぜ、そうならないのだろう。楽しくなさそうなの、かな。

 

いまこれを書いているのを風呂上がりの長男にみつかり、読んでいった。「たしかに、ならないね、その2つ、フフっ」といって去っていった。