天使と悪魔

次女のイヤイヤがすごくなってきた。エクソシスト的な憑依。言葉も覚えたので、きちんと主張する。したいことが、ちゃんとある。代わりにしてあげるのはご法度。自分でしたかったとこじれる。

平常時のあどけない可愛さはどこにいったのかというくらい、泣き叫ぶ。同じ言葉を何度も繰り返す。今朝は「ママ抱っこ」。ママが手が離せなくて対応出来ない間、ずっとこのフレーズを泣きながら繰り返す。いかつい街宣車シュプレヒコールくらいの迫力がある。

いちばん困るのは、彼女が「わかってない」場合。たとえばお風呂に入って、服を着せようとしたらそれを拒否する場合。「着ないの」と意固地に裸のままでいようとする。冬のこの家の寒さの中で裸はさすがにまずい。彼女にとってのそんな親心など知ったことではない。ただ目の前の着せようとすることを拒否したいだけ。結局、むりやり着せることになる。その代償は大きくて、忸怩たる思いなのだろう、30分くらい(の長さに感じるくらい)延々と泣き続ける。

 

この手の泣き声の周波数は、人間にとってあえて心地の良くないヘルツ的なものに生物の進化上設定されているのかしら。なるべく落ち着かず、危機感を感じるように。聞き続けるのはつらくて耐え難い。寝起きならなおさら。

でも、この小さい身体にすごいパワーがあるというのはどこか心強い。むかし長男がまだあどけないころ、火傷で大怪我させてしまって、NICUに入るくらいの入院をさせたことがある。沢山の管につながれて、ぐったりしていた。普段の思いっきり泣いてうるさいときがありがたさを感じたことがあって、早くあの泣き叫ぶ声を聴きたいと思ったものだ。なので、子どもは泣くことも仕事のうちだとおもって、どっしり構えていようとなるべくしている。作用と反作用の法則は宇宙の真理的な。可愛い時ばかりでない。やまない雨はない、泣き止まない子どもはいない。

そして、昨日保育園で、同じ学級のこと押し合い圧し合いしてるのをみかけた。イヤイヤvsイヤイヤのガチンコ対決を毎日して、それなりのストレスをかかえつつ、自分を押し殺していることもあるのかもしれないと想像がついた。その反動で、親には安心して思いの丈をぶつけているのかもしれない。そうだとしたら、思う存分それを受け止めてやるのが親の役割なのだろう。

 

とはいえ、こちらもまだまだ修行不足の身。疲れているときはほんとにイヤになるときもしばしばで、ついこちらもイライラしてしまい「ひつこいな〜、そろそろ泣き止めボケ」的な心情になってしまうのも事実なわけでして。

いっそ、赤ちゃんとかちびっこの泣き声パワーを蓄えて発電できるとかの技術が開発されたりしないものかしら。泣いたら電気代減るとか、熱に変わって部屋が暖かくなるとか、餅が焼けるとか。わざと泣かせるはなしで。

 

昨日買った家電が入っていた大きなダンボールに入って、長女に押してもらって部屋をあちこちいっている。長男も入った。重くて押せないと苦心する長女。んじゃおれが押すと交代して二人の妹を長男が押しはじめた。しばらくして3人ともあきて、いま次女はリカちゃん人形にいろいろアイテムをつけ始めている。「見て〜かわいいでしょ」と横で話かけてくる。今朝の悪魔はなりを潜め、かわいいやつでしかない。つかのまの平穏。