読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

何をしているわけではないけどあっという間

ブログが滞ってしまった。家事育児って、あっという間に時間が過ぎていくのですなぁ。毎日やることがいっぱいあるものなのですなぁ。掃除、洗濯、食器洗いに食事の準備、ゴミ捨て、買い物。「読んで」といわれた絵本読みにお風呂に入れに、寝かしつけ。あっという間に一日が過ぎてしまう。冬は日が短いし、太陽と追いかけっこしているような感覚。1つの作業は、1分で終わるようなことばかり。だけど、それが100個も200個もある。集中してポンポン片付けていっても、まだまだあるよ、とわんこそば状態。子どもにも無愛想になることもしばしば。夜に近づくにつれ、余裕がなくなり、その果てしなさにだんだんイライラしてくる。

たとえば、みんなのご飯がおわって、ようやく自分の分をキッチンでそそくさと食べているときに、空腹を満たした長女が『パパ〜、これ、読んで〜』とくる。無邪気。断られるなんで夢にも思ってないだろう。うれしい申し出のはず。でも、とっとと残飯と食器を片付けたくもあり、その余裕のなさと、空腹が勝ってしまう。そして何より、「ご飯くらい食べさせてくれ」的な自分のペースの時間がないことへのイライラで、、断ってしまうときがある。特に一人っ子はこれに対するストレス耐性がない気がする。

子どもとの時間がほしくてこの生活になったのに本末転倒じゃないか、とあとから冷静になって反省するのだけど、そのときはどうもカリカリしてしまうんだなぁ。寝かしつけが終わったら、張り詰めていた神経がプワ〜ってなって、ヘロヘロになってすぐ寝てしまう。あの徹夜が平気だった20代はどこへやら。情けない。

恥ずかしながらこれまで妻に任せっきりだったこれらのこと、感謝はしてたつもりだけど、実際やってみたら、その100個のうち、1つでもやってくれたら超助かる、というのが心からわかった。食洗機で洗い終わった食器を戸棚に戻す、シンクのネットを入れ替える、夕食が出来たとき、ご飯や味噌汁を家族分をよそって配膳してくれるとか。「たったそれだけ」だけど、やってくれたら「超ありがとう」ってなる。
そういえば、まだ妻に任せっきりのとき、「それらくらいやって」と言われていたけど、やらないことがあって、よく怒られた。そんなくらいで怒るなよと思っていたけど、今はわかるし、やればよかったと思う。こう書いたらいやらしいけど、やることと感謝の費用対効果がすごい。ちょっとやるだけで、ものすごいありがとうが得られる。ありがとうのお買い得セール。

いまは、当事者になったおかげ、自然と「やっておいたら楽だろな」のセンサーがみについた。例えば、朝は彼女のほうが早いときがある。正確に言うと、ぼくも起きるべきところなのだけど、寝坊を許してくれることがある。そのときに少しでも救済されるべく(だからむしろ自分のため)、夜のうちにキッチンをきれいにして、ご飯が炊けてあるようにタイマーをセットしておくようにしている。この手間、翌朝にまわしてやらずに子どもと一緒に寝れたらどんなに楽だろう。でも、これはできるだけやりたい。
もっとも妻のためにとかカッコいいことでは、もはやない気がしている。たいしたことでないし、自分のためが二人のためになればいいや、くらい。キッチンが片付いているとこの家を気持ちよく満喫できるし、日々の生活を自分自身で整えている感覚が心地よい。いまはだいたい家のどこに何があるかわかるし。

いままではこれらのことを面倒なことと決めつけて、やってもらえたら最高と思ってたのに。主夫的生活のおかげで、この価値転換ができたのはでかい。前は確かに楽ではあったけど、その分、妻にそのしわ寄せがいっていた。今はワリカンくらいにはなったかな、バランスはとれたし、ゴロゴロする姿を子どもに見せないし、家事をする/しないのもめ事のストレスもなくなった。

この同じサイクルで流れる傍からみたら実に平凡な日常生活を、自分が彩っているとまではいえないけど、ペースを整えているくらいまでにはなって、「自分のものだ」感が増した。以前はどちらかというと非日常に憧れをもっていたのかもしれない。そしてそれはモノやサービスといった外部から与えられる。だから、それを得るために日常をそっちのけにして働いた。いまは、その非日常を得る余裕は我が家にはない。だから、どちらがいいかは比べられない。そりゃ、ハワイに行けたら楽しいだろう。東京にいた頃のように、毎日のように飲みにいって、たくさんの面白い人たちと出会えたら刺激的だろう。
でも、Uターンしてそれまでのスタイルを捨ててみてわかったこと。子どもの存在のような、絶対的なものに身をゆだねると、欲や迷いが消える。自分よりも大事なものができることはおそろしい。自邸をのぞいて、ここ数年で自分のために何かを買った、というものはない。それでも、以前より満たされているかんじがある。愛すべきチビたちに囲まれて、ワーキャーと騒がしい毎日をかみしめながら、自分が整えている生活に愛着が生まれた。生活が内部から与えられるようになった。テキトウなぼくのことだから、いつまでこの価値観も続くかはわからない。子どもたちが大きくなり、親との距離が必要になったとき、またぼくは外を求めるような気もする。

ちなみに、我が家の寝床は少し変わっていて、小さなこどもでは届かない高さにある。階段もはしごもない。だから長女と次女は自分一人ではそこにたどり着けないし、逆に寝床から1人で出てこれない。なので、朝も夜も、ぼくがキッチンにいるとき、寝床にいく二人から、『パパ〜降ろして〜/のぼらせて〜』と求められる。手を拭き、階段を降り、寝床までいって抱っこして昇り降りさせる。忙しいときにわざわざそれをしに行くのは、実に手間だ。「はしごほしい」と妻から何度も言われている。でも、やがて二人も長男のように自分で昇り降りできるようになって、このかけ声はなくなる。面倒だけど、それまで、なるべくぼくがはしごになりたい。バリアフリーから程遠いこの家だからこそ生まれるコミュニケーション。彼女たちが大きくなって、帰ってきてそこで寝ることがあったら、もしかしたらそんな父の記憶が甦るかもしれないし。

親が目に見えてしてあげることは、どんどん減っていく。なくなったとき、あの頃はよかったと思い返すのだろう。それを肝に命じて、この3人とむきあって、思い出沢山つくろう。イライラするのはもったいない。でも、しちゃうけどね多分今夜も。