待つということ

先日、長男が通う公文の先生との面談にいった。以前うけた全国テストの結果を受け取る。公文は東京にいた時から通ってて、国語だけ、かろうじて、つづけている。

Uターンして、こっちの教室になったとき、その先生は、息子が公文を好きでないことを見抜いた。確かに、やらせれてた感がバリバリだった。結局、算数も英語も、辞めることになった。自分からやろうとしないものに、やらせる余裕は、我が家にはないから、すぐに辞めさせた。国語は首の皮一枚。

教室に通いはじめのころ、全く集中していなかったらしい。周りを見渡したり、消しゴムをイジイジしたり、なかなか着手しない。家でもそんなかんじだし、ダラダラして宿題ためるし、容易に想像はつく。まさか公文の教室でもそうだったとは。こりゃ家に帰るの遅くなるわと見かねた先生も、先生の真横に座らせたり、いろいろ試して、随分ご苦労をかけたそうだ。ありがたい。

でも、その日は随分とほめてくれた。最近、ようやく集中するようになったんです〜とニコニコ。テストの結果も、愚息のわりにはだけど、思ってた以上によい。早く親御さんに伝えてあげなくちゃ、と楽しみにしてたらしい。

「この年齢の子って、辛抱して、待つことって、大事なんだなと思いました」と先生はいった。一時期はもうどうなることでしょ、と思ってましたよ正直、ウフフ、といいながら。

親は待てなくて、泣いててもどんどん辞めさせたけど、見捨てないでじっくり見守ってくれる存在がいて、息子も救われたんだろうな。教室でも最近はサクサクしてますよ、とのこと。家でも、以前よりは能動的に宿題をやっている気がする。余裕のない親は、すぐ結果を求めたり、目の前の状況だけで判断をしがちだけど、目に見えない何かは蓄積してて、やがて発酵することもあるということか。

今日のサッカー教室でも、以前はボールを蹴ってもヒョロヒョロだったのに、いつしかシュートも、当たりがよくていい音がでるようになっていた。ゴールも決めて、急にうまくなってる感はある。これも、コーチが辛抱強くアドバイスしてくれたおかげだろう。

 

待つこと。親にとって、どこまで待てばいいか、判断がとてもむずかしい。でも、ものすごい大事な気がする今日このごろ。彼、彼女の時間の流れを、親のモノサシで判断しない。たとえペースは遅くとも、前に比べたら伸びてはいる。その変化に、目をむけたほうがいいんだろうな。

そして、親が「やれ」といわないサッカー教室は、自分からいく。親が「やれ」と言われてた公文は、自分からはやらない。男の子にとって、サッカーのほうが楽しいのは普通っちゃ普通だけど、親が大事だからと思い込んでやらせることって、小学生にもなると、導き方は単純じゃない。やれといわれるほど、やる気をなくす。作用・反作用の法則は、メンタルにも確実にある。だからといって、言わないでおくと、自分からはやらないから、またイライラする。そんな日々が続いてた。

鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス。公文の先生が、家康に見えた日。親からしたら、これまで、「鳴くのかな、ホトトギスかも、わからんな」というかんじだったけど、「鳴きますよ、ちゃんと」といわれた気がして、少しホッとした。

帰って、息子を珍しく素直にほめてあげたら、嬉しそうで、以来、ノッているかんじはする。自信が少し、持てたのかな。これまで怒られてばっかだったもんな。

待つことと、褒めること。じれったいし、照れくさいけど、なるべくやりましょう親トギス。