読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

次女をパパが看病したら

次女、単純ヘルペスによる発熱と口のなかの腫れ、炎症、口内炎でもう大変、な夏の看病強化週間を経て、本日無事保育園復帰。ちゃんと食べるか心配だったけど、ちゃんと食べたらしい。よかったよかった。よくぞ乗り越えた。

でも父ちゃんほんと、大変だったなぁ。こんなに、かわいい我が子なのに、ほんとに神経が磨耗した。例えるなら爆弾処理をずっとやってるような状態、やったことないけど。デジタル時計がまわり、回路切断すべきのブルーか、レッドか、とよくドラマであるやつ。

違ってたら、爆発の代わりに大音量ギャン泣き。しかも選択肢10個くらいあるし。うち正解ひとつやし。もうたいがいいつも爆発させてたし。

 

フキゲンで(病気だからあたりまえ)、抱っこすると、「んー、んー」といって、指を指す。どれをお示しになってらっしゃいますか、と視界にあるものを一個一個確認するのです。ぬいぐるみですか、ちがいますね、この花ですか、ちがいますね、という具合。二階へ行くと、一階を指さし、一階降りると二階へいくという。この昇降機サービス何往復したことか。

いつも、もうハラハラで、逆らえばお泣きになり、腕の中でイナバウワーになり、仕方なくお床に置きますと、これまたフライパンで焙られてでもいるのですか、というように身体を反り、手足バタバタとお暴れになる。手がつけられない。もうわたし、クビてしょうか。天の神様どうかこの幼児の怒りを鎮めたまえ、そしてあわよくば寝ておくんなましと祈るしかない。

 

一番こまったのはお食事時の、「ん、ん」。

牛乳をご所望ですね、ということはわかって、パックからコップに入れて差し上げると、少し飲んで、クビをふる。んで、また牛乳パックを指さす。いや、あんたいまこれ飲んで違ういうたやんけ。「これ(牛乳パック)は、こ~れ(コップに入った牛乳)」(怒)というんだけど、まだ牛乳パックを指差す。アホかこいつ、仕事できんのか、おまえが社長やったら会社何個つぶすかわからんわ。イライラ。とはいえ、むこうは妥協なんてする気さらさらない、というか、妥協そのものをまだ人生で習ってない。一歳はそれで健全ですハイ。事態が硬直してまたギャン泣きになるとやっかいなので、従う。別のコップ、ティンカーベルのキラキラやつ、これなんかあんた好きそうやし、出してきて、洗い物増えるけどしゃーない、再び入れる。

ほら隣のコップと同じもんでてきたやろ、同じなんだって。ブツブツ。

ティンカーベルのほうも飲ませてみる。ううん、とクビをふる。

なんねん!だからいったやんけ!

つい、「アホか」と口からでる。いや病人にそんなキツイ言葉すいませんなんだけど、みてみ、目の前で牛乳のコップ二つ、行き場なくしとるぞ、これ、ど~すんのよ。

 

落ち着こう。相手は一歳。しかも、病人。こっち三十六才男性、三児の父、元気。しかも、相手は他ならぬ目に入れても痛くないはずのわが娘、ぢゃないか。深呼吸。

 

亀田の柿の種をもってくる。これでも食べて、牛乳俺が処理しよ。(わたくし、お恥ずかしいが牛乳で亀田の柿の種食べるのが好きです。まさか次女きっかけでこんなことオオヤケにすることになるとは。。)

パリボリ食べ出す。亀田と牛乳は口のなかでいつもどおり仕事をしている。落ち着いてくる。

目の前で、んー、んー、といいだす。わたしにもよこせ、の、サイン。便乗好きやなぁ。

医者からは食べ物は柔らかいものにしなさい、といわれている。が、あげることにする。口のなか、ただでさえ大変なことになってるけど、断るとまた泣かれる。食べても、たぶん泣く。どうせ泣くなら、何かを得て泣きなさい。

意外に、泣かずにパリボリやっておる。目の前で父が牛乳飲む。便乗して、ティンカーベルのほう差し出すと、牛乳のむ。さっきの拒否なんだったんだよ、少しは後ろめたそうに飲むだろ普通、なんでこれ美味しいよねぇ顔なんだよ、とおもいつつ、結局二つのコップとも、あく。めでたし。

こんなこともあるんやねぇ。そいえば、昨日も柿の種と牛乳、父ちゃん横でやってたわ。牛乳指差す正解は、牛乳出す、じゃないんやなぁ。そのままやんそれ、という話なんでしょうか。ひとひねり。

 

一時が万事こんなかんじで、神経張りつめつづける半日が今週続いた。

ちなみに、この常に黒ひげ危機一髪状態の最中でも、おとなしくさせた魔法のアイテムが3つあった。ひとつはカルピス。ひとつは牧場の朝。最後にもち吉の煎餅。でもいずれも頼りたいが、多用はさすがにはばかられる。特にカルピスは上の二人の共有財産。そして、もち吉はあげすぎたら、腫れた歯茎から流血してもた。

 

この看病生活、大変だったの神経が疲れたのもあるけど、このくらいのストレスは、まぁ社会人生活でもある。言葉少なくて、思い通りにいかないとすぐ怒るボスやお客さまはいらっしゃる。

 

つらかったのは、言語が通じないことだった。意志を伝えたり、状況を説明する機会は剥奪されている。けど依存され、一緒にいなくてはいけない関係というのは、どんどんこちらの余裕がなくなる。

自分のペースがつくれない。たとえば、「待って」がてきない。ちょっとトイレにいくし、待っててね、が出来ない。だから、連れてくことになる。トイレもまともにできないのかよ!となる。

 

言語が通じないものって、身近にある。たとえば機械。でも、これは人間様に尽くすためにつくられた宿命で、しかもいわゆる命もない。機械が思うように動かなくなったら、たとえばPCが大きな音を立て続けたら、すかさず、ためらわず電源を落として、再起動させちゃえばよし。こんな面倒なつきあい方はしない。機械も、人間がストレスを感じないように、スマートに、どんどん進化してる。だから、逆に、身の回りがスマートになればなるほど、イヤイヤ期の幼児のような、ひたすら手がかかり、自分がどうしようもできないことへのストレスに対する免疫が、大人側がなくなってるんでしょな。そう考えたらスマートなものに慣れた生活ってこわい。

でも、言語を使う前の子とうまくやれるようなれば、世界中の子と遊べるようになるかもしれない。夢ある。

 

孤独なのもつらかった。思いが共有されないつらさ。だから、午後に学童から長男が帰ってきて、精神的にすごく軽くなった。何かを手伝ってくれるわけじゃない。むしろ、あれしてあそぼうー、と、対応すべきことが増える。でも、いま次女がほしいと思ってるか、一緒に考えようぜ、っていうだけで楽しくなって余裕ができる。看病に少しだけ、遊びの要素が加わる。

 

こんなに二人っきりで時間を過ごせたのは、病気のおかげともいえる。つかれたけど、とはいえ、看病がおわってうれしかったのは、少し次女からの信頼が増したようにかんじたこと。一昨日は黄昏時、もうそりゃたいへんな阿鼻叫喚断末魔で、ママが帰ってきたらもう父のもとから逃げ、誘拐からの脱出ですかこれ、というくらいママのところに駆け寄っていって、授乳で落ち着く、父寂しく佇む。だったのが、昨晩の夕食の準備のとき、キッチンで「抱っこして」といい、それはそれで身体的には辛かったけど、片手で抱っこして、もう片手で調理してをやってるとおとなしく、満たされてるかんじ。ママ帰ってきても、前日のように吸い込まれるわけでなく、「あ、ママ、かえてきたね」といって、まだ腕の中にいつづけた。誘拐犯ではもはやなかった。

今日も抱っこして、が多かった気がする。パチパチ。

 

あんなに、起きてるときは「とっとと寝てくれ」と思っても、寝顔をみるとかわいくて、愛しくなってまた早く明日にならないかなと思う。育児はその繰り返しですなぁ。

 

あ、歯茎が痛い。ヘルペスだな、こりゃ。親にうつして、子は治る。それでいい。

家族が寝静まって、家事も一通りやりきって、今日のドタバタが少し過去においやられ、心が余裕を取り戻してくる。iPodのシャッフル機能は、redio headの"No surprise"を選択して流してくる。なんか気分にピッタリすぎて、沁みた。こっちはひとつも、「んー、んー」とリクエストしてないのな。スマートやなぁ。やんなっちゃう。