雑草雑考

庭でのびる雑草たちをむしる。ひたすらむしる。盛土で造成された土地だから、土はやせていて、粘土質でわるい。けど雑草はたくましく、生えまくる。

 
きりがない。またどうせ生えてくる。時間の無駄な気もしてくる。コンクリートにしてたら、こんなことしなくてもいいのに。さぞかし、楽だろうなぁ。
でも、土でいいと思っている。コンクリはお金がかかるというのもあるけど、建物は一度できちゃったら変化しないから、時間とともに大きくなったり、生命を感じて循環するものがあったほうが楽しめそうだ。子どもたちが大きくなって、父と距離を置きたいとおもったときも、家でゴロゴロしてるのをうざがられるより、庭いじりしてたほうがまだいい。
 
雑草を根こそぎ抜くと、小さな草でも、根っこは太く、身を支えるべくぶわっと広がっていて、土の上よりも大きかったりする。ズルズルズルって大地と縁を切ってやった手応えが気持ちよい。でもこれって少し破壊的な気持ちよさだな。家を追われた虫たちも逃げまどっている。ゴジラ的なことをしている。とはいえ、空き家に茂る雑草みてると、むこうも容赦はない。ウカウカしてたらヤられるし、自分の狭い庭がなくなっても、雑草業界にとってはたいした話でもないだろう。我が家にとっては庭がボサボサはいろいろ悪影響がある。だからこれは戦いだ、という扱い。
 
我が家には、いかにも見た目から嫌悪感をもつ雑草が8割ほどの最大派閥のシェアをもっている。スーッと細い葉っぱ。まっすぐでしなやかな茎。いかにもどこでも伸びますよ〜というオーラ。名前は知らない。調べる気にもならない。たぶん、ネコジャラシとかススキ系とふんでいる。何がイヤって、つけ根が赤い。なんだよその不気味に隠し持った色は。周りを駆逐してでも自分は生き延びます、といった強さが現れている。こいつ危険!というのがすぐわかる。
大きくなったそいつの根っこは、土に半端なく固くアンカーしててなかなか抜けない。「大きなかぶ」の絵本を思い出す。腰にわるい。しかも、がんばってもかぶはない。ただ腰を破壊してくる草。あーやだ。若いうちに芽は摘まなくては。悪い男の顔になり、今日も庭に立つ。
 
草を抜いたところを見返す。時間のわりに全然進んでないけど、気分はそれ以上にスッキリしている。抜いた草は一箇所にまとめることにした。牧場ですかここは、というような1メートルほどのこんもりした山になり、こんだけやったぞ感が得られる。ゲームのトータルスコアみたいなもん。
 
庭の雑草って、ヒゲ剃りみたいなものだなと思う。ヒゲには「傷つけお剃りしてしまい、申し訳ございません」とは思わない。身だしなみを整える行為の一環。エントロピーが小さくて、秩序をもっている身の回りの状態を、美しいと人はおもうもの。自然そのままに身を委ねた乱雑さは、自らの環境が脅かされて、生命の危険をかんじとるんだろね。だから、手をかけて、自分がステディーと思える初期状態まで整えて、戻して、落ち着きたい。
 
いわば、手入れされた芝生とただ生えた雑草の印象が違うのは紳士のオシャレヒゲとワイルドあんちゃんの無精髭の違い。まぁ好みっちゃ好みですな。ついでに、拾い集める石ころは、さしずめホクロってところか。誤解を恐れずにいえば、自分の庭は、自分の顎。
 
わたしがいませっせとやってる、草を手で抜くというのは、ヒゲを毛抜きで1本ずつ抜いているということになる。いつまてたっても、そりゃスッキリしないわけだ。紳士でもなく、ワイルド系でもなく中途半端なかんじ。ひげそり、庭にもいるなぁ。
 
今日、妻が、朝顔が綺麗な家って、ツタをまっすぐ、平行にしてるわよね、という。へぇー気づかんかった。ここにも秩序をつくってたとは。だから、我が家のただ延びてるやつ、いまいちなんだねと合点がいく。長男が、そんなの当たり前やん、学校でもそうしてたよ、と。へぇ。父ちゃん小学校のとき、そうやったかなぁ。
 
朝顔のツタは、さしずめ髪形か。無造作ヘアといっても、形はつくるもんなぁ。
また、やることがひとつ。夏の庭は、エネルギーの塊。
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