キャッチボールと祖父

公園で長男とキャッチボール。長女が横でストライダーを乗ったり、時々球を拾ってくれたり。彼とそういえばこれまでキャッチボールはしてこなかったなぁ。父ちゃんの小さいころはスポーツといえば野球がまずできないと、ってなかんじだったのになぁ。ファンのチームどこや?みたいな会話もないっぽい。

まだグローブからポロリ落ちたり、フライで後ろにいかなきゃいけないときは追いつけなかったり、途中から横投げになったりするけど、一応往復は成り立つようになった。

自分は祖父と毎日のようにやってた。自然とそのときの記憶が蘇ってくる。あの頃、祖父からみたら今の息子のように自分が見えていたのかな。キャッチボール好きやったなぁ。住職をしていた祖父、夕方に家に帰ってくるのを待ちわびて、黒衣から着替えたら、速攻外に駆り出してた。

年に一度、寺で報恩講という大イベントがあって、たくさんのお客さんが大型バスで乗りつけて、お坊さんがたくさんやってきて、一斉にお経をあげたり、法話をしたり、今風にいうと坊さんによるフェスみたいな日があって、その日はそれが終わった後、居間にお坊さんやら手伝ってくれた人が一同に会して打ち上げをして、ご飯を食べる。住職は当然もてなす側で、一緒になってワイワイ楽しそうに飲んでいる。

 

ぼくは、キャッチボールを早くしたいから、おじいちゃん何をしてんだ早く終われ、と玄関でグローブとボールを持ちながらずっと立ってる。おじいちゃんに必死でアピールしてるけど、その日ばっかりは当たり前だけど出てこなくて、拗ねた。あのとき玄関で待ちぼうけしているときの悔しい気持ちが、ボールをいったりきたりさせながら、何十年ぶりかにこみあげてくる。

 

祖父は当時70歳くらいだった。よく毎日付き合ってくれたもんだ。いつしか、おじいちゃんから立ってボールが返ってこなくなった。キャッチャーのように座って、転がって返ってくるようになり、やがてぼくは1人で壁当てをするようになった。「もうできない」といわれたのは覚えてないから、自然とシフトしたのだろう。おかげで野球が好きになり、当時黄金時代だった西武ファンになり、小学校3年生のとき夏休みに初めて1人で東京に行って、田無のおばちゃん家に泊めてもらって、西武球場に毎年通うようになる。目の前の息子にしたら、もう来年の話なのか。

 

息子の名前は、おじいちゃんと母から音をもらってつけた。報恩講はぼくの原風景で、大御堂に祖父のファンが集まり、ありがたや、と法話を聞いている。孫バカだったから、「跡継ぎの孫です」と前で紹介されたとき、客のおじいちゃん・おばあちゃんからこれまたありがたや、と拝まれる。今でもお経の合唱を聞くと心が落ち着く。人の心を話ひとつであれだけ惹きつけるってすごいことだな、と憧れた。高校のとき、イベントがあるたびに夢中で漫才をひたすらやってたのも、そんな祖父の背中をみてたからだとおもう。

 

自分の分身、といったら息子に失礼だけど、彼のおかげで眠ってた大好きだった祖父との記憶が蘇ってくる。育児は大変なこともあるけど、こういうのは福利厚生のようなご利益ですなぁ。

息子からしたら、今父ちゃんとキャッチボールする記憶は大きくなったら忘れるだろう。でも、もしいつか彼に子どもができたら、同じ状況がきて、今日の日を思い出すかもしれない。子どもができなくても、いつかこれを読みやがれ。家族の記憶の継承ってのは、そうやって非連続に折り重なっていくものなのだろう。

 

結局、お寺はなくなり、ぼくは跡をつげなかった。けど、不思議なことにお寺がなくなった年に、こっちにUターンする決心をした。「仏様のお導きや」、と祖父はいつもいっていた。欲に流されず、人生の流れにさからわず、ただ念仏を唱えてた生き方。寺は継げなかったけど、祖父に与えてもらったものは、息子に返さなきゃいけないなとおもうから、明日からもキャッチボールをせがまれたら、どんなに疲れててもやってやろう。

 

夕日がキレイな時間になったから、家のテラスからみようといって帰る。蚊にさされて足がかゆい。