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大きくなって何の役に立つか

長女次女を保育園に送る。木曜日の朝は体操の日。長男のサッカースクールのコーチたち、これまたよくぞ揃えましたというくらい爽やかで優しくてイケメン、EXILEかJ soulなんとか的な、ジャージなのにキマってるという好青年3人が、遊戯室で園児に跳び箱やら鉄棒やらを教えてくれている。

自分の背丈よりすこし低い跳び箱にむかって一生懸命に走り、大股ジャンブして、立つ。おぉ。真剣な表情から、やったぜ!な破顔になる。達成感あるんだろうな、みてて爽快だ。オジサンもやってみたくなるぜ。

 

でもですよ、跳び箱の跳躍って、大きくなって必要だとおもったこと、そういえばないな。簡単に越えられない障害があったら、その脇を避けて通っている。横にスペースがあるのに、わざわざ障害を登らない。それが大人の判断というものだ。もしもスペースがなくて、先に越えられない障害があったら、そこは通らない。

 

「サインコサインタンジェントなんて、勉強したって、何の役に立つのですか?」

反抗期であり思春期のわかかりし学生の頃、だれしも問いたくなる疑問。

それって、この跳び箱にもいえるんじゃないか。サインコサインはヤヤコシイし、多くの人にとってできれば敬遠したい存在で標的にされやすいだけで、器械体操だって、そうなのかもしれない。受験に関係なくて変なプレッシャーないし、身体動かすの楽しいし、できたら達成感あるし、数学やるよりはましだよね、だから、役に立つか立たないはさほど問われないだけで。

 

「役に立つかどうか」問うことは、避けるための方便で、その前に漠然とした嫌悪感がある。

保育園の体操教室には、園児たちにその嫌悪感がみじんもない。小さいからそもそも疑問を抱かないのもあるし、コーチがEXILE風で優しくてほめてくれるし、失敗しても次があるぜ!と励ましてくれる乗せ上手だからも大きいだろう。だからきっと、メキメキ跳び箱も鉄棒も、うまくなる。

 

そのままそのスキルが大きくなって、直接役に立つことはないかもしれない。でも、挑戦する姿勢とか自分への自信とか集中力とか、メンタルが鍛えられて、大舞台での勝負強さが身につくかもしれない。瞬発力や跳躍力がついて、車に引かれそうな子犬を助けることができるかもしれない。

 

「何の役に立つか」とすぐ考えようとするのが、大人、というかわたくし、のわるい癖なのかもな、と反省。小さな子どもにとってはその考え自体が、役に立たない気がする。効率よく、自分の思い通りに物事を進めたい大人、というかわたくしの都合からきてるわけだし、役に立ったかどうかの判断は、結局あとあと振り返ってからの結果論。

大事なのは、よくいわれてるように、親せいで嫌悪感を抱かせることなく、好奇心を膨らましてやることなんだろな。「みてて」と子どもはよくいう。彼らにとって、親のリアクションで、その好奇心が正当化されるかどうかをみている気もする。父ちゃんはEXILE風になるのを目指すと火傷するけど、そのまなざしだったら与えられるよ。

 

夢中でひたむきな姿勢というのは美しい。 子どもはいわずもがな、たとえ、それが大人でもそうなのだろう。