子どもとの時間を買ったと思えば安いもんだ

 普段は公務員をしているぼくですが、この4月から、思い切って、育児制度をつかって週2.5日勤務という勤務形態にしています。この育児制度、いわゆる育休とはちがって、小学校に入る前の子どもがいる場合、週5日勤務という義務が免除され、2.5日でもいいよ、としてくれるものです。もちろん、その分給料は半分になります。この制度、役所によくある、制度はつくったものの実際はほとんど使われていない形骸化したもの。その存在すらほとんど知られていませんでした。

 ぼくがその制度を利用するとなったとき、周囲は正気の沙汰じゃない、しかも男性でとるなんて変わってるね、という反応。でも、小学生と幼児と乳児をもつ3人の親のぼくとしては、彼らと時間を思いっきり過ごせるすばらしい制度に見えました。妻に相談して、寛大なことに理解してくれました。しかも、家計を支えるために、フルタイムで新しい仕事についてくれました。彼女の懐の深さにはほんと、頭が下がります。
 
 そして始まった新しい生活、友人知人の反応は、面白がられはしますが、「よくそんなことできるな~。(自分にはできないわ~)」というものがほとんど。多分、いちばんは経済的な理由。これまでどおりの生活ができなくなることに抵抗はあるようです。しかも、我が家の場合はこのタイミングで新たに家まで建てて住宅ローンがはじまる時期。ほとんど呆れられている気もします。
 それでも、ぼくにとってこの決断は自然なものでした。そもそも2年前にUターンしたのも、ぼくらの子どもにとっては小さいころは田舎のほうが楽しめるだろうと「子どもシフト」したからですし、子どもの小さい頃に一緒に過ごすという時間が愛おしく、それを満喫するため環境づくりのためならUターンもするし、家も建てるし、時間もつくる。

 大きなお子様がいらっしゃる人生の先輩方から「今がいちばんかわいいときだね。大事にしな。」とさんざん吹き込まれたこともありますが、小さい子の育児は、
 ①いましかできない。あとでどれだけしたくても、手に入らない。
 ②自分しかできない。相手もあなたを求めていて、かわりがいない。
 ③やればやるほど、人生のいい思い出がふえる。
というもの。もしも仕事でそんな条件のものがあったら、給料が安くてもいいからやりたい(!)と思うわけで、それがたまたまぼくにとっては「育事」だったのだと思います。
 
 そうやって始めてみたこの生活、これまで恥ずかしながら妻に任せっきりだった家事、料理、洗濯、掃除も、もちろんやるようになりました。家計を節約するために、自分の髪を自分で切ったり、iPhoneやブロードバンドもやめたり、新しい家の登記も自分でやるべく法務局に通ったり、お金が足りなかった工事をDIYでやったり。渓流釣りで魚を得たり、家庭菜園をして自給自足を少し試みたり。お金もないし、給料も稼げないなら、できるだけ自分でやって、出ていく分を減らすためにいろいろやる。不思議と、前よりも「豊かだ」と充実感を得ています。
 いい大人が今さらなのですが、自分の生活が、これまでいかに他者に依存していたかを時間しています。特に家事は、いかに手が休まらず、自分の時間がなく大変だったかもわかり、敬意と感謝の気持ちがぐっと深まり、これまで面倒と思って避けていたことも自分でやるようになると、自分の生活をそのスタイルにあわせて細かくチューニングできるし、手をかけることで目の前の日常に愛着が生まれます。同時に、自分の領域が広がって、少し逞しく、生存のためのスキルも身に付いたような気になり、仕事とはまたちがった成長実感があります。
 
 言い換えれば、他愛もない日常の価値をみつめ直しているのかもしれません。あと何回、子どもたち3人と一緒にお風呂に入れるのかな。限りある時間のなかで、彼らの身体を洗いながら、日々感じるささやかな成長に気付く。自作のぬか漬けのキュウリや釣ってきた岩魚を、美味しそうに食べてくれると嬉しい。決して派手ではないものの、自分のペースで呼吸ができ、日々の息づかいが整っている気がします。
 このような日々は、かつての農村の生活が持っていたものなのかもしれません。そういえば、農家さんは今でも自分の生活を整える術をしっている。都市的な生活と農村的な生活、自分にとっての適度なバランスが、このあたりにあるのかなと思い始めています。