犬と鴨

「ワンちゃん飼いたい。リードつけてお散歩したい」(長女)

ホームセンターで売られている柴犬をみて「10万円だった」と。大きくなって安売りされていたらしい。

「柴犬がいい」

安いと買ってもらい易いとを使ってくれてるのかもしれない。

もちろん鴨も飼いたい。鴨と犬は仲良くできるのか。鴨は怖がらないか。それが分からないと結論はでないのだが、長女の動物好きはわかっているし、ぼくが犬をねだって飼ってもらったのも同じ年齢のときだった。気持ちはよくわかる。

鴨と犬が共存できるか。このレアケース、誰か知らないかな。

人間ドックにて

人間ドックのとき。はじめて鼻から胃カメラ入れた。たくさんの人が動いてくれた。ぼくはうつ伏せになっているだけで、バタバタと鼻に麻酔を打ってくれたり、カメラを入れる準備をしてくれたり、挿入するときは身体を抑えてくれたり。人が自分のために動いてくれることのありがたみを実感する。

だけど、鼻を開けるために10分くらいホースの先をつっこんで待機しているとき。天井をみながらぼーっとしていると、そうか死ぬときもこうして一人なんだなと妙にリアルに想像することができた。周りはバタバタしている。だけど自分は一人、世間と切り離され、そしてそのままこの世を去る。

一人でこの世を去るのだから、世の中の動きの中で、ほんとうに自分が追いかけなきゃいけないことなど、きっとほんの少しなのだ。目に見える範囲、そしてそれらと直接関わっている背後、そのくらいまでが自分の社会におけるプリミティブなテリトリーだ。

たいていは知りたくもないものに野次馬的に興味をもたされ、知った気になりながら時間をムダに過ごしている。ベッドの上で反省した。自分のことを知らない人はもちろん、自分が特段仲良くもない人のニュースをみて、あーだこーだ野次馬的にいうのは人生の時間の浪費に思えた。それができるのは、ぜいたくなことだということもできるのかもしれないけど。ぼくはやはり、限られた時間は直接的な関係のために捧げたいと思う。もちろん本も読みたい、映画も観たい、旅もしたい。見知らぬ他者のことを知って、広い世界をみたい。それらの行為も、自分と直接関係づけて初めて意味がある。傍観してるだけでは何も得られない。実際に自分で作るときに活かしたり、他者の苦労や気持ちをよくわかるようになったり。身近な間柄での日常が楽しくなくことに資するためにやるんだ。母は高校野球の選手が校歌を泣きながら歌ってるシーンをみてるだけで泣いていた。試合はひとつもみてないし、その高校の名前もしらない。でもその一瞬で気持ちが分かっていた。当時は不思議だったけど、今はわかる。選手のピュアな気持ちの尊さを自分で体験的にわかっていて、そしてその瞬間がいかにかけがえのないものであることを知っているからだ。

直接的な端的にいえば、「ありがとう」を直接言いあえる範囲を大事にするということ。いつ死ぬかわからないのだから。来月再検査がある。命について考える貴重な胃カメラであった。

「さよならだけが人生だ」という井伏鱒二の名言もあるが、あれはきっと、「ありがとう」の意味だ。終わりがあるから、感謝がある。

送る会

次の木曜日、6年生を送る会がある。息子はダイナマイトとやらの曲のダンスを披露するのであろう、家でも繰り返し聴いてダンスの練習をしている模様。一方で長女も2年生の出し物で、鬼滅の刃の音楽でダンスをするそうだ。しかし家では一切やらない。「6年生には内緒」という掟があって、それを忠実に守っているらしい。けなげだ。

今日は珍しく二人で野球盤とハリガリでキャッキャ楽しそうに文句をいいながら遊んでいた。お互い遠慮がない。だけどその分気楽で噛み合った時、すごく楽しそうである。

筆箱

次女が小学校にむけて、筆箱と下敷きをかったそうだ。うれしいのだろう、横になるぼくに見せに来てくれる。

「学校早くはじまらないかな。とっても楽しみ」

横で東野圭吾を読んでる息子が「にいちゃんの見てごらん、このマグネットが外れてボロボロになるまでつかったんだよ」と自分の筆箱をみせている。

その黒い筆箱、6年間使い続けたそうだ。相変わらずものを大事にする奴だ。長女は「一年間で買い替えてたのに」と誇らしげである。たしかに、たいしたものだ。

リカ

妻が次女と小学校の制服を買ったらしい。「リカちゃんモデル」なるコラボ商品があり、その名前だけで「ぜったいこれがいい」となり、かんたんに餌食になる。ライセンス商売おそるべし。このやり方は殺傷能力高すぎる。もちろん割高だがぼくがその場にいても断れるわけない。

日中は保育園自然体験。雪山登山にいって、雨雪降りしきり視界がない悪天候にもかかわらず頂上までたどりついたらしい。

「残りの期間、たくさん思い出つくろう」といっていたリュウ先生の言葉どおり、ありがたい経験をさせてもらっている。

行きたい外国

息子が中学生になったら、夏休みとかどーんと海外にいってみたらいいという話になる。行き先候補はカンボジア。もりあがる。もう一度行きたいんだな。行動につながるのは、その意味とか意義よりも、いい印象を感じて、楽しいとか美味しいとか、覚えているいい感情をふたたび呼び起こしたくなるかどうかなんだな。一方で、ネガティブな印象を感情的にもつと、行動につながらない。他には彼が興味ある国は「英国」だそうだ。ホームズのせい。これは空想でいい印象をもっているのだろう。憧れによるもの。それもいいね。とにかくいろんなことにポジティブな印象を植え付けること。しんどい思いは達成感を知っているから続けられる。ただしんどいは続かない。ポジティブ育児は基本なのだ。