おなか

「ごはん、『ピッカリーン』したからお菓子たべていい?」と元気な声でお菓子棚に駆け寄る次女。しばらく念入りに物色して、エリーゼを持ってきてムシャムシャ食べておる。1袋に2本入っている。何十年前から同じ包装。1袋で済むと思ったらもう一袋開けて食べようとしている。

「お菓子食べたら、お腹、ポンポコリンになるぞ」とデブ警告したら、頬張りながら自分のお腹を不思議そうに見る。

「だいじょうぶ、って、お腹がいってる」と笑顔で返ってくる。

あとで来るんだよ、肥満は。と思いながら、自分の説明が言葉足らずだったことを知る。でも美味しそうで幸せそうだからこれ以上何も言わない。ひまわりの種を食べるリスをみているようだ。

カワイイアンテナ

長女が将来なりたい職業、先日は巫女さんだったけど、その後、飛行機に乗ったあとはCAさんになり、今日は「テレビでニュース読む人」になった。兄がみるコナンの映画に出てきたらしい。そういえば保育園の親子遠足の後は「バスの前で立ってお話するおねえさんになりたい」といってたな。靴屋さんやお菓子屋さんだったこともある。

彼女の中にはカワイイアンテナがあって、日々カワイイもの探しをしてるのだな。毎日ビビビと来てる。次は何をみつけるのかな。もうすぐ6歳。子どもの用のパソコンがほしいらしい。

ありのまま

最近の次女の天然ぶり。おしゃべりで思ったことを口にできるようになって、みたまんま、かんじたまんまがフィルターを通さずにそのままでてくる。

 

寝床で寝かしつけているとき。

夕食で変なカフェインでも入れちゃったかというくらい、寝つかない。そそくさと寝息をたてる長女の脇でずっとしゃべったりゴロゴロしている。

「そろそろお口とおめめ、チャックして寝ようね」と言うと静かになる。

10秒後、「あ〜すぐにお口とおめめ、ひらいちゃうんだよね〜」とまた喋りだす。

 

朝、長女と一緒に地球儀を回しているとき。

長女からここがおうちだよ、と教えてもらって「そうなんだ」といいながらまたクルクルまわしながら「保育園は、どこかしらね」。

「だから〜、おうちといっしょ」と、長女がじれったそうに返す。

次女にしたら、地球はおうちと保育園、あとおじいちゃんとおばあちゃんの家くらいなのでムリもない。一方長女は世界がもう少し広いことは分かっているということなんだな。

 

夜、また寝かしつけるとき。絵本を読んでというので選んできた本を読む。「あらしのよるに」のシリーズで、オオカミとヤギの友情の話。お腹が減ったオオカミが友だちのヤギを襲って食べてしまいたくなる場面で「ヤギの匂いがすごくいい」というくだりがあったので「嗅いでみたい」と本に鼻をすりつけてヤギの匂いを嗅いで「いい匂いがした」という。ちなみにオオカミも同じ匂いがするとのこと、そりゃそうだ。

もう一冊。ミッキーとグーフィーの出てくる「かえるさんとおいかけっこ」という本。ぴょんぴょん跳ぶカエルにミッキーとグーフィーが手を焼く話。「カエルって、虫だよ」と教えてくれる。

「いや、カエルは虫じゃないんだな。両生類っていうやつ。」

「ううん、虫だよ」

「虫じゃ、ないんだな〜」

「なんで?」

「カエルには、骨と肉があるでしょ。虫には骨はなんだね。」

「なんで?」

出た、なんでだろ攻撃。答えに窮する。わからない。

「う〜ん。虫は飛ぶとき、羽根を使うでしょ。カエルは羽根がないでしょ、それでも跳ぶときって、骨と肉がないと力がでないんじゃないかな」

「ふーん」

ひとまずなんで攻撃は止んだけど、あとあと考えたらバッタは骨と肉がなくてもカエルくらい「跳ぶ」し、羽根を使って「飛ぶ」。そうとは限らない。骨がないなら、カニも虫になってしまうし。うかつであった。適当な説明をするくらいなら、流せばよかった。カエルが虫じゃないと気づかせるのは、別に今じゃなくてもよかったな。勉強して今度訂正しよ。

ついこないだ

今月38歳の誕生日を迎えたわけで、高校卒業から20年たったことに気づく。生まれてから高校までの期間を、高校卒業してからこれまでの期間が上回っているわけだ。信じられない。高校卒業なんて「ついこないだ」の範疇だという感覚がある。あのころから成長したところもあるとおもうけど、退化しているところもたくさんある。

何より恐ろしいのは、高校を卒業するときに、「ついこないだ生まれたばっかりだよね」と思っていなかったにも関わらず、その期間よりも長いわけだ。この時間感覚、直感が追いついてこない。時間が圧縮されている。

人生がいつ終わるかは分からないが、余生の捉え方として、「何年生きるか」という定量的な方法はもはや意味がないようだ。子どもたちがその頃には何歳になるとか、他者との関係を測るときに比べられるから便利なだけで、自分の人生が長かったか短かったかを判定するのには役に立たない。100歳まで生きていても「ついこないだ還暦になったとおもったのにね」と40年間が一緒くたになっているかもしれない。

人生なんてそんなものといえばそれまでだけど、そんな人生時間圧縮の力学にあがなうことはできないものか。

そのためには、元気でいられる毎日に感謝をして、目の前の一瞬一瞬を大切にするようにするべきなのだろう。ただし、それはアクセクいろいろと積み込むということではない。それでは時間の流れの加速度を大きくする力学だ。「時間が足りない」と思うことになる。

むしろ逆で、何もない時間に意味を見出すのが大事なのだと思う。何気ない日常の解像度を高める。そうすれば圧縮しにくくなるし、その積み重ねが人生を振り返ったとき「いろいろあったよね」になると信じたい。

目に見えるものなどたかが知れている、とよく唄に出てくる。それはポエティックなものと捉えていたけど、そうでもないらしい。宇宙ではダークマターが星の運動を支配しているというし、毎秒わたしたちの身体を何兆個もニュートリノが通過している。物理的にもこの世界はそうなっている。それらがぼくらの身体、ひいては人生に影響が全くないわけがない。

一見、空っぽなこと、無に見えることに実は意味があることを発見できたら、より世界を楽しめる、そんな過ごし方もあるはずだ。

次女なりの等式、不等式

話す内容が少しずつ複雑になってきた次女。頭の中もそれだけ考えることができるようになったということが分かってきてうれしい。

最近、彼女の思考で「等式や不等式を使ってる」と思うことがある。

例えば、この間お風呂のなかで娘二人をお風呂に入れていて、それぞれママ似かパパ似かの話になった。長女はだれからもママ似といわれるのに対して、次女はどちらかというとぼくに似ている。それが現実だ。

なので、その事実を伝えると悲しそうな顔になり、自分も「ママ似がいい」と泣いた。パパ似はいやなのである。分からなくもないが、パパとしては複雑な気持ちである。意地悪だけど、パパも悲しいことを表現するために嘘泣きをしてみた。「パパ似がいやっていわれて悲しいな」と。

まさかそんなことになるとは次女も思ってなかったようで、一瞬、鳩が豆鉄砲くらったような顔をして泣き止んだ。かとおもうと、我に返ったようにまた泣き始める。ママ似がいいのは変わらないのである。引き続き試しにパパも泣き続けていると、少しは同情してやろうという気になったのか、「ママ似とパパ似がよかったの」といいはじめる。

さらに、「パパとママは似てる?」という。なるほどP(パパ)=M(ママ)ならどちらに似ても同じだ。

別の日。

「イノシシとクマは、どっちが強い?」と質問してくる。「どっちも強いんじゃないかな〜」とお茶を濁していると、じれってーなお前みたいな顔になり、「じゃ、イノシシと会うのと、クマに会うの、どっちが怖い?」と質問を微妙に変えてくる。なるほどそう訊かれたら答えやすくなる。それだとクマのほうが怖い。イノシシも太ももの頸動脈を牙で狙ってくるらしいので怖いけど、木に登ればよい。パパにとっては、I(イノシシ)<K(クマ)なのがわかればそれでいいらしい。

しかし「イノシシと鬼はどっちが強い?」とも訊いてきた。これはわからない。

算数は勉強して何の意味がある?という話はよく聞くけど、考え方としては3歳時も知らず知らず使っているわけで、それが教科書や授業になると急に身近じゃなくなるだけなのかもしれない。算数だって、日常的な思考なのだな。

友だちとの会話から

次女も言葉を覚えたおかげで、クラスメイトと会話をするようになり、今日何を話したかを家に帰ってきてシェアしてくれるようになった。

今日は車のなかで「さーちゃんは、赤ちゃんのとき、足を一本切られたんだって」という話。

ドキっとする。

「さーちゃんって、今は足2本ないの?」

次女、少し考える。

「あるけど。」

冷静な声でサラッと返ってくる。

「え?じゃ、生えてきたのかな」

「そうじゃないの」

「すっご。トカゲのシッポみたいだね」と横で聞いてた長女。

まだ3歳だし、つじつまとか真贋はさておき、友だちとキャッチボールをしていること自体が楽しいのだろう。

寝る前、「パパって、身長大きいよね」といってくる。「身長」という言葉を彼女が使うのは始めてだし、「だれかに言われた?」というとやはり友だちがいっていたそうだ。

次女との会話、新しいステージに入ったかんじ。さらに楽しくなってきた。

その日がゴールではない

昨日、ママ友から教えてもらったことがあった。10歳くらいの子が家で間違ったことをして、注意する場合。子どもは反発していうことを聞かない。親もエスカレートして、「わかった」と言わせようと怒る。ますます子どもは意固地になる。

子どもが成長して、意志をもったらどこのご家庭でもあるであろうこの風景、小学校の先生に相談したら「お母さん、その場で子どもを納得させようとがんばってませんか?子どもは大きくなるにつれ、気づくものもあるのです。大人になったとき、いま親がいっていたことを『こういうことだったのか』と気づいて、ちゃんとした大人になる。それでいいのです。もっと気楽になってていいです」と教えられたそうだ。

目からウロコ。なるほどそうなのか。自分だって親の教えはあとから学んでいたはずで、その日を更生のゴールにしなくたっていいのか。

大きくなると、すれ違いのテーマが価値観の相違、に関わってくる。よくバンドが解散しているやつだ。大人でも調整は難しい。親がこれまで経験して知っている世界と、子どもが見ている世界は違う。だから子どもは親の言うことが理解できない。親も子どものことが理解できない。だから、理解を助けるには二つのステップが必要なのかもしれない。一段階目はなぜそういうことをいうのか背景をお互い言い合う。そうすると、お互いの世界に対して少しは具体的な想像ができる。二段階目に、その背景を踏まえてのお互いがいいと思うことを話し合う。それらを伝えあっておいて、これから先、我が子の世界が自分のものと幾分か重なれば、いつか「そうだったのか」とわかる日が来る。そうじゃなきゃ、こない。

自分も振り返ってみたら、いまだに親から「あなたも将来、分かるわよ」と言われて、そのとき「ふざけんな」と反発して、いまだに違うと思い続けていることもたくさんある。

でも、親としては子どものことを心配して、というのが根っ子にある。よかれと思ってベストをつくして躾をしようとしている。それゆえに親も意固地になったり、逆にタチが悪かったりするのだけど、ゼロ段階として、それをまず伝えてもいいのかもしれない。親は敵ではない。良薬かどうかわからないが、苦い思いをさせたくて口に入れようとしていない。そして最後は「あとは自分で決めな」と選択肢を与えることなんだろう。

気をつけなきゃいけないことは、親は子どもより「世界を知っている」という思い上がりなんだろうな。確かに子どもより広いのだけど、知らず知らず凝り固まったモノサシで世界を見ているかもしれない。子どもに、フレッシュで柔軟な世界の捉え方を助けに親も世界が広がればwin-winになる。

築40年のプレハブで焼肉とビールを楽しみながら。これまでのぼくの子どもたちへの躾を反省した夜。